2023年7月12日

脱却

 
「自分よりも苦労している人はいくらでもいる」と思えるようになったのは、逆説的だが「これ以上ない」と感じる苦痛を経験したあとだった。

どうしても引受けねばならぬことがあり、それが理由もなく平気で外からやってくる。
始めからそういうものだったと、世界のありのままの姿を知りようやく盲目から醒め、人の世の入り口に立てた。

自分の恵まれた点に目がいかないうちは、他者の戦いに真に目がいくこともない。
「私よりも苦労している人はいくらでもいる」と言葉では知りながら、実際は他人など眼中にないのが常である。

そういう盲目を、必ず打破しなければならないとも思わない。
打破せざるを得ない状況・運命が存在するというだけのことだ。
けれども、そんな盲目を切り開く道こそ、人間に生まれた醍醐味を最大に感じさせてくれる言わば贅沢さを秘めている、そう感じている。



10 件のコメント:

  1. 最近また心が疲れたこともあり、久しぶりに訪問しました。知的で分かりやすく、かざらない文章でとても共感しながら読んでいました。いつも元気付けられています。一年前に更新されてて嬉しくなりました、またたまに更新してください。私はまだまだ思考ぐるぐるなので、過去に全投稿読んでるのですが、もう一度読み返したくなりました。ありがとうございます。

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  2. コメントありがとうございます。もはや「読まれている」ことを意識してない場になってまして、思いつきや自分にしか分からない事を書き連ねたりなど、ふらりふらり扱ってきました。
    そんな場にある文でもわざわざ書きたいと思ったからこそ書いたのもまた事実で、それがどなたかの目にとまり(心から僭越ですが)共感や元気を少しでも生み出したとしたら、とても嬉しいです。
    お疲れとのこと、どうぞご自愛下さい。
    誰かの日々の踏ん張りが誰かの力になる、かえって私も久しぶりにその事を思い出させていただき力を貰った思いがします。

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  3. こんにちわ、1年前にコメント投稿したものです。7月って私にとって辛い月なんでしょうかね・・・
    今まさに私がこの投稿の内容のこの状態です。今人生一番のピンチかもしれません。
    打ちひしがれています、突然の事故、突然の不治の病、突然の災害。
    こういったあたりの、ロシアンルーレットに当たってしまったかのようです。
    そういう人、たまにいるよね、知り合いがそういう目にあったりすることもあるよね。意外と近いね、大変だよって一瞬その人のことを想像して心はいたくなるけど、でも自分は大丈夫だよね、って思っていたことがまさか自分に起こりました。自分の人生が終わるまでずーっとずーっと私の心の重荷になるものです。重すぎて対処できない。
    どうやって対処しましたか?私は恐怖に飲まれています。恐怖に飲まれたら身体感覚を感じればいいのでしょうか・・・
    white greyさんにこのコメントを見つけていただけることを願って・・・

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    1. こんにちは。お久しぶりにお声が聞けましたが、ひどく落ち込まれた様子に心が痛んでいます。
      この投稿の内容当時に内面に起こったこと、私の経験だけ述べさせて下さい。
      どうやって乗り越えたかというより、どんな形に受け入れていったかという一例です。
      あくまで私の話です。無神経で的外れな物言いを先にお詫びします。
      ---------------
      大きな失望に陥った私は、無力感や嫉妬や逆恨みにもがきました。
      しかし最後に残ったのは『また壁に突き当たっても腐らずベストを尽くしていこう』という強い気持ちでした。
      それは言わば「真っ当な誇りを持ちたい願望」でした。
      どう考えても自分に重大な非はなく、かと言って他の誰かに非があるとも明確に言えない、出口の見えない苦しみでしたが、そのやり場の無さによって『ほとんどの事は誰も悪くない』『世界は思っている以上に、ただお互い様で回っている』『よって自分(各自)が納得できることだけ考えていれば良い』という答え方が自分の中で指し示されていきました。
      誰かのせいにできるトラブルからは導かれない視点でした。

      一方、言葉にすれば当たり前なそれらの事が腹落ちする中、自分が何を問題視して苦しんでいるのか考えれば、その苦しみは『自分が並以上の幸運に拘るから生じている』としか言えませんでした。
      そして以前からもちょっとした苦労人を自認したように生きてきたつもりだった自分を思い返し、実のところ特別の覚悟も持ち合わせなかった自分を少し恥じました。

      苦労すべきとは思いません。(今も思っていません。)楽しいのが何よりです。
      ただし実際に苦難に直面したならば、そこでの在り方についてはこれからは真に納得いく形にしたいと思うようになりました。上記の「真っ当な誇りを持ちたい願望」でした。
      経験のない他者になど分かりようがない物事とひとりで対峙しねばならない状況が、私の関係性でばかり物事を認識する性質、つまり消極性をハッキリ浮き彫りにした構図で、その発見に至るプロセスごと自分の宿命として肯定的に受け入れようと思いました。
      トラブルそのものでなく、自分のことは自分にしか分からない・他者などは気にしなくていい・自分を本当に好きになれるように生きていきたい、など人生観じたいがアップデートされ心の火力が上がり、(苦痛はゼロではありませんが、進歩を肯定して)その後に至る感じです。
      ---------------
      長くなりましたが、以上が私の話の概要です。
      匿名さんの現状の重みとして釣り合い、また的を射ている自信は全くありません。ただの自分語りになってしまい恐縮です。
      私自身、これから自分に何が起こるか分かったものではないと思っています。
      あらゆる苦難に打ち勝てる方法があるとも思ってはおらず、ただトラブルから受ける苦痛を「なるべく減らす」ような心構えと心身の備えを心掛けていくしかないと考えています。

      なお、精神的苦痛は覚悟により和らぐというのと、やはり身体感覚をよく感じて生活すること・軽運動をよくすることが最大の有効策だと私は思います。

      匿名さんの状況や受けとめ方、気持ちが少しでも軽くなるようお祈りしています。

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  4. なんてありがたい事でしょうか、まさか返してくれるとは思わず。こちらを通してですが連絡がとれるのもすごく嬉しかった、感謝しています。ご丁寧で真摯で慈悲に溢れたコメントでした。

    greyさんの個人的な経験を共有してくださりありがとうございます。起こる事象や内面の状況とその変化、またその分析から今後への対処など。理不尽な事象をただ不幸なものとして世を恨み儚むのではなく、それら丸ごと受け入れて昇華し、人生観が変わったとは出来事を全く無駄にしていませんね。すごいです。
    ここは私が心が苦しくなった時に何をすべきか、または自分が見失っているのか、一度リセットして戻ってこれるような場所になっており、ひっそりと訪問しています。(心を病んだ方でgreyさんのブログに救われる方、私以外にもたくさんいるはず)辛くなった時に、greyさんの心に響く投稿をメモに残しては見返しています。

    せっかく返事をくださったのに、なんで返したらいいかお返事が書けないでおりました。あまり知的でもなく文才がないのもあり、自分の内面を文章化することが苦手なのです。
    greyさんの言葉を借りれば、今回私に起こったことは怠慢のない喪失感、でしょうか。誰のせいでもなく原因もわからない。病気でおそらく近い将来視力を失います、現代医学では治療法はなく進行を遅らせるしか手はない。先日発覚したことですが、診断が確定したときはすでに症状を進めてしまっており、愕然として恐怖と理不尽さに打ちひしがられました。毎日朝起きた瞬間心は重く今現在見える現実はあるのに、心はまだ見ぬ未来を思っては絶望しています。

    私はおそらく、心の底にある思いは、今の生活を手放したくない。今のこの状況から落ちたくない(傲慢な表現ですが敢えて)、でした。今ある快適な生活(心は別として)どこも損傷がない身体の一部や機能を欠損する恐怖。執着です。
    また、不慮の出来事や生まれながらの事情で辛い人生を送っている方々と一緒になりたくないという傲慢さ。可哀想といいつつも、どこかで私は関係ない無関係という、慈悲なき非情で安全なところから向ける上から目線でいました。

    ただそこに気付いても、そんな感情や観念が自身の中にあるという認識だけ。そこから先へは進めません。気付いただけ。
    でも何もなければ無関心だったものに、気づかせてくれたギフトかもしれないとも思います。内面や身体に感じる感覚を意識せよと。外ばかり見てるんじゃないと、叱責された感じはあります。大変乱暴ではありますが。

    まだ診断されて数週間しかたっておらず、苦しい日々でしたが、この数日少しだけ意識が変わりました。
    結局は行動としては現実的な方法でやれることのベストを尽くすしかない。現実的な治療(延命)、生活態度、他者に対する慈悲、感謝、内面観察、いままで適当に疎かにしていたことをしっかり意識して取り組むこと。それしか出来ないからというのと、今出来る事をやらずに後で後悔したくないという事から来るものでした。神仏への祈りもしたければすればいいと思いました。(現に幾つかの神社に神頼みもしました)

    今回はそんな出来事の中、心が苦しくなって、またgreyさんのブログを読みたくなって衝動的に思わずコメントしてしまいました。
    思考でいっぱいになっている自身を認識して身体の感覚を感じようとしています。おそらく身体の損傷による心の痛みのアプローチにもgreyさんのやり方は大変有用かと思います。

    まだずっと心が落ち込んでいるわけではないので、心が楽しく過ごせる時は最大限その時間を大切にする。
    これで身体的な現状がよくなるわけではないだろうけど、少なくとも心の平安があるほうが、同じ時間を過ごすでも充実度や人生の感じ方が変わってきます。それだけは、確かなことですよね。

    あ、そうだ、おそらくgreyさんと私は同世代です。10年前にブログを書かれていた時からお互い年も重ねています。
    当時は心の悩みメインでしたが、やはり体は老化もし、老いと病気の苦しみも出てくる頃です。
    私の病気もある意味老化でなる方が多いですが若くてもなります。greyさんもコンタクトをされているようなので、私のように後悔しないように、定期的な検診を受けてくださいね。絶対ですよ。

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    1. こんにちは。私の体験談はあくまで私にとっての必要性の域を出ないようなものだったと思うのですが、大変な中でも熟読いただいているのが文面から伝わり申し訳ないような気持ちになりました。

      視力ですか…。お辛いですね。言葉がありません。
      揺れ動くなか自分の考えなどを客観視し、また短期間で前向きさを持ち始められている匿名さんこそ すごいと思います。
      起こっていないことを我が身のことに思える人も、始めから持つものの価値に完璧に感謝できる人も、いないと思います。より明るく太い道を見るのは人間の性のようなものだと思うので、かつての自分を「傲慢」と言わないで頂きたいです。(敢えての言葉かも知れませんが。)

      現実に対してショックを受けた私の場合は、けっこうな長期間、ネガティブな逆恨みのような所に留まりました。世界がこんなに無作為なものならば、他人や良い生き方など気にすべきでなかった、この世に意味などなかった、と。
      同時に、人の世のなんと孤独で寂しいものかとも感じました。

      また私の話をしてしまっていますが、それでもその後、世界をそこまで荒んだものと捉えるべきでないと思い直しました。
      私たちはやはり自分が好き・世界も好き、であるべきで、「誰かに何かを届ける」ことでそれらの両立が誰にでも果たせるのではないかと思えました。何も持たない私でも、自分が困った経験についてなら、実感や信念を込めて語ることができる。思い切り不調な時さえ、その姿と存在で以て、意味が分かる誰かを勇気づけられる可能性があるとも気づけました。
      おそらく誰にでも自分を好きになれる可能性があること、祈りを還元させてくれる世界が存在してくれていること、それらが救いとなり、長い時間をかけ少しずつ自暴自棄を脱しました。
      匿名さんと大違いです。自身が大変な中、心からの誠意で目の検査を勧めていただいたこと、心に染みました。今後は私もきちんとしていきます。(コンタクトは数年前に基本やめました。)目の病気については、視神経の維持のための遺伝子治療というものが比較的実用化が近いと、少し前にTVで見ました。無責任な情報で申し訳ないです。どうか信頼のできる良い医師を選んで頂きたいと思います。

      私の年代……分かるような記事を書きましたでしょうか?(もしかしたら私より匿名さんの方が当ブログに詳しい可能性が出てきました、、、恐縮です)

      また自分の話ばかりになってしまいました。散漫で身勝手な内容を重ねてしまったことをお許し下さい。前向きになれる材料が匿名さんの身の回りに一つでも増えることを願っています。
      気を紛らわしたいときなど、また遠慮なくお話し下さい。

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  5. お返事ありがとうございます。返信が遅くなりました。やはりなかなか私は筆不精で。
    本当にまさに、Greyさんの気づきと信念が私を救った形になっています。精神的につらい時、もちろん家族や友達も支えになってくれますが、一人で時間を過ごす際何とも言えない孤独と不安の中、こうしたGreyさんの心に響くブログだったり仏教の本だったりが私の心を救ってくれるのです。そしてこうして交流していただけることにとても救われた気持ちになります。
    いつか私も確信や信念をもって、人を元気づけられるなにかを提供できたらいいなと思っておりますが、大それたことはないので身近な大事な人たちを大切にしたいと思いました。
    今回の件で私の家族もとても心配してくれますが、また同時に彼らの心に重荷を背負わせてしまうようで心苦しく思います。ですが私の心が健康で前向きな気持ちを持っていれば多少なりとも彼らの気持ちも楽になるのではと思っております。

    診断された後、先週土曜日は通院日でした。とても気持ちが重くなる日です。元気に過ごしておりますが、それでも毎日気持ちは揺れ揺れしており、見え方にストレスを感じることも多く、自分はやはり病気なのだと実感することもあり気持ちが沈んだりします。
    そしてやはり、思考は悪ですね。Xで同病のツイートを見たら途端に思考がわいてきて不安の時に感じる腰のあたりがぞわぞわを感じました。
    自己観察はこのような自動反応を検知するにはいいですね、単なる自動反応なので飲まれないようにしたいです。
    あとは、自分にとってピンチな時は心のトレーニングには最適なタイミングらしいです。
    確かにぎりぎりになっているので、反応も激しいですしかなりつらいですが、観察対象としてはいい機会なのかもしれないと思いました。
    マインドフルネスを教えてくれる人に聞きましたが、やはり身体感覚を感じるのが一番いいようです。思考優位になっていて自分自身に信頼が出来ていなくて他人軸になっていると。Greyさんも身体感覚を日常に取り入れていると思いますが、常に感じるようにしているのでしょうか?
    座面に触れる太ももの感覚、床に触れる足裏の感覚、キーボードに触れる指の感覚、認識したら終わりですか?それをずっと感じ続ける?飽きてしまって。気づいたらまた感覚を感じるのでしょうか。
    人はメリットを感じないと行動しないらしいです。私も今まで、心がつらい時はマインドフルネスや瞑想ごっこなどしておりましたが、心が回復すると途端に忘れてやらなくなってしまいます。
    効果がよくわからない、時間がもったいないと思ってしまって。とりあえず、楽になったからもういいかと思ってしまうのですが、Greyさんはどのように継続できるようになったのでしょうか?
    継続と効果の実感が伴わないとなかなか信頼してこの道を進むことの困難を感じております。

    Greyさんの年齢が推測できたのは、また再び剣道をするとかしたいとかいう投稿からだったかと思います。2015年くらいだったかに高校以来20年ぶりだとかいう、それがただしければ多分私の方が2,3個年下です(笑)
    とりとめのないコメントですみません。またおしゃべりさせてください。

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    1. 大それた事は実際ほぼ誰もしておらず、意外に身の回りのささやかなことから大きな影響を受けているのが世の中の日常だと思うので、自分が正しいと思うことは、小さくとも・閉じていても、心に従ってやるのがきっと良いですね。
      どんな振舞いも、誰かにどこかでいつか、断片または間接的にでも伝わるように思います。オカルトでなく、本当にそういうものである気がしています。
      加えて、逆にその程度がもともと上限だと思うので、時には回りへの気遣いはひかえて大いに頼ったり甘えたり、もよいと思います。
      不断のお互い様ですね。

      「不要な思考」の制限ですね。不要な思考はフィジカルから来る苦しさから気をそらすためのものであり、フィジカルから来る苦しさは神経の状態を改善することで減らせるので、日々の身体の扱いには注意したいところです。

      私もときどき身体を感じる状態から離れますが、割と頻繁に意識しています。と言うのも、頭痛や身体の痛みがあるため、ケアを怠るとすぐ不調が表われるからです。「やっちまった」と、なるべくすぐ修正していく形です。
      内的な感触を常に監視せざるを得ないような私の瞑想との付き合い方は、特殊な必要性に迫られたものであり、あまり他の方の参考にならないかも知れません。
      ただ、そんな生活ですので経験を通して身体意識意識の重要性に対する確信は強く、それがモチベーション上、迷いの払拭に繋がっている面はあると思います。

      あとは、そうですね……「心の不自由さ」に対する怨念のようなものが割とあって、物心つく頃から身近にあったものを、宿命として納得いくまで明らかにしたいという思いは強いですね。ちょっと執着みたいですが。
      このテーマに関しては、私は仏の静けさでなく闘志を燃やしている感じに近いと言えます。

      人により諸々違いますので、モチベーションに「こうあるべき」という線を引くのは難しいところですね。

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  6. 頭痛や身体に痛みがあるのですね、それはつらいですね・・・
    Greyさんのことは勝手に精神は繊細だけど、肉体的な健康に恵まれた方だと想像しておりました・・・人にはそれぞれ目には見えなくても、肉体を持つことの不自由さを感じるのですね。すみません、一方的な思い込みでした。Greyさんの精神も身体も健康になることを心から願っております。ご自愛くださいませ。
    別件ですが、先日高校時代の友達に3名と会ってきたのですが、心や身体に対するアプローチが本当に私と違っていて唖然としました。
    彼らは、強靭な肉体と健全な精神に恵まれており、家族がいるいないはありましたが40代半ばにもかかわらず相変わらず20代と同じような生活を送っていました。
    酒を浴びるように飲み、タバコを吸い、夜遅くまで仕事にいそしみ、ハードな管理職を務めていました。
    ずいぶん私と生活が違うようだと認識しました。どちらの生活がどうであるとか、こうすべきなどの分別はありませんが幼少期から心身ともに病弱だった私はこうありたかった自分の人生を謳歌している友達を見て何とも言えない気持ちになりました。
    内向きに、心の内面を観察したり無意識にうごく身体やその感覚に意識を傾けるのは、やはりやむにやまれぬ事情がありそこをよりどころにするより仕方ない状況にならない限り踏み入れない領域かと思います。
    元々持っている恵まれた天性はあるにしても、おそらく彼らは、心や身体に対する受容が広く柔軟性をもって日々生じるストレスに対する対処ができているのかなと。
    まぁいいかって感じで、うまく流している感じはします。私のように視野が狭くない、彼らの生まれながらの性質や性格が羨ましいとともにこちらも改善すべき点はあると感じました。
    もちろん人間ですから、それぞれの苦があるでしょうね、私が見る彼らも数年ぶりの彼らでしたし人知れず悩んでいるなにがしかはもちろんあるとはおもいますが。
    心の探求をしなくても済む人もいるんだなと思いました。

    心の不自由さに対する怨念ですか、なんとなくわかります。
    私は心の不自由さから出る生きづらさを何とかしたい気持ちが強かったです。
    物事を自分の思い通りに進めたい気持ち。幼少期に親から刷り込まれた価値観や成長するにしたがって自身の経験から獲得した自分をがんじがらめにする観念。
    ねばならぬ信仰が私を苦しめました。
    またその価値観が正しいものとして疑わない、他の価値観を受け入れられないのでとても苦しかったです。
    私は現実を自分の思う通り動かしたかった、でもそれでは意味がないというかまた新たな執着やいびつさを生み、またそもそも現実を変えるとかそんなこと不可能で。
    不確定の未来や状況に一喜一憂するしかない。
    結局期待や執着を持たないことでしか解決できないことがわかり、何が起きても心が反応しない状態になりたいなと思いました。
    そうこうしているうちに心を病み、からだの感覚をおろそかにしていることがわかり、不要な思考をしているときにからだの感覚に集中すると余計な思考が出ないとわかりました。
    私が継続しなければ、効果を感じなければ意味がないと思っているのもとらわれですね、どこかその先に心の平安があると信じているわけです。
    おそらく生きている限り苦は続くわけで、年を取るごとにその苦しみは増えいき、自分がどこまで耐えられるかわからない。何とか手がかりをつかみ始め、でも確信はなくその手ごたえを実感を伴って感じたいと思っているんだと思います。
    あまり周りにこのような話をする人がおらず、悶々としておりました。もしかしたらいるのかもしれませんがなかなかそのような深い話には流れ上ならないですよね。
    なんだかとりとめのない文章になってしまいました。

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  7. 本当に、人は様ざまですね。40代半ばでも20代と変わらないような生活。
    パワフルで明るい人のことは私もずっと眩しく見てきました。失敗を怖れぬ勇気があり、結果に執着せず、好循環のなかで生きていけて幸せな人生なのだろうと。
    ただ、精力的な活動も大小問わず誰かの何らかの犠牲(支え)の上に成り立つのものですし、人がすることなんて大差ないという思いが勝っています。

    人はその時どきの最小限しか内省的にならないもので、私自身ももちろん同様で、だからこそ理想と現実のギャップにた長く悩みましたし、自らの病的な面の発見・自覚も後へ後へと、先送りにしました。
    自分を見つめなおす必要性に直面する宿命があると思います。直面がいつかは分かりません。また、直面しなくていい運命というものもあるかもしれません。
    これらは運の話なので善悪や優劣とは関係ないと思いますが、少なくとも一度見えてしまった・得てしまった視点を、これから捨てて無知のころの自分に戻りたいとも思えません。最新の私が歴代最良の私であり、人と比べることなく、ただ「それが私である」のだと思います。

    今悩んでいない人が未来永劫悩まないとも限りませんね。その時はその時で必応じて当人が道を描いて、それが「その人」であるのでしょう。

    歩んできた道は完全には消えませんし、いかに心が落ち着いても価値観自体が逆転したりもしません。私は生身で生きてきた『私』の域を、多くの部分で出ません。そんな自分を前向きな意味で愛そうと思うと、反応しない心、はハードル高いですね。
    最新の価値観含めて自分を肯定し、大切にしたまま、『反応はしても執着はしない』、つまり『早く手放せる』を目標にするのも良いと思っています。
    微差を楽しみ、試行錯誤を楽しんでいきたいですね。

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