2018年2月22日

頭は身体で回してる


運動しないとバカになるように思う。
 
年を取ってくると特に。


身体の神経回路が非活性化すると、知的に老化する。

頭自体の老化ではないと感じる。




2018年2月13日

好きなアスリート


好きなスポーツ選手。

昔から変わらない。

「貴乃花光司」。

天才で純粋でサイコー。

凡人の安いモノサシで評価・断罪されている。

あの小細工のなさを見よ。

がんばれ!負けるな!

ちょっと不器用すぎるけど!


2018年1月27日

「王道」「スタンダード」について 2


「王道」や「スタンダード」に徹して小手先に逃げないのは、骨のある態度だ。

「個性」や「その人らしさ」というものが最も尊く輝かしい。それは確かだと思う。
しかし「自己満足に走らず王道に徹する」姿勢が苦節の末に獲得されたものであれば、それにも大いなる称賛を送りたい。
世の中で生きていくことに「腹を括った」証だと思うからだ。
自己流を捨てることは、強さや覚悟がなければ出来ないことだ。

それに付随して思うのは、王道に徹することができるのは、「人の世を信じることができる人」だろうということ。
他人が積み上げたもの、他人が見つけた答えなどの「自分以外の歩み」を肯定することができなければ、人の世が生み出した王道に身を委ねることは出来ない。

人の助言を参考にできない人は、人間不信の傾向があるのかもしれない。
そう思うのは、正に私がそうだったからである。



2018年1月16日

ゆったり雑に


心を病んでいる時、「几帳面」や「凝る」という性質は基本的にご法度だ。
そういうスタイルでやってきた人は自分の心を守るために見直すべきだ。

極力根詰めない。物事は「雑」にやっていい。
私もそのように気を付けているが、そこで気づくのは、雑にやっていると「スピードを上げようとする力」がじわじわ働いてくるということだ。

雑にやることで処理が早く終わるのが嬉しくなってくるのか、はたまた雑になってる状態が不快でストレスを発散したくなるのか、ともかくしだいに気持ちが急いでくる。
力まないために「少々雑でいいんだ」としているハズが、結局バタバタ急いでいたら効果半減だ。

そうならないためには「ゆったり、雑に」と心掛けると良いようだ。
「超天然」体質の人を観察すると細部にこだわらず大まかにゆっくりやっているが、アレである。
ゆったり、をまず崩してはいけない。
ゆったりをキープした上で、その結果として仕事などが大雑把になる、の順序でなければならない。



2018年1月9日

クラシック


クラシックという言葉が好きだ。
「class」に合っている、「class」を体現しているということ。
クラシカル「古典」のことではない。

その人にはその人のクラシックがある。
単に「分相応」ということよりも、些細なことも含めて「自分が最も自然でいられる」のが各々にとってのクラシックだと思う。

真似をしない。
無理をしない。
贋物をまとわない。
「そぶり」をしない。

それぞれがそれぞれのまま、堂々とする。
それが各自の品格につながる。
普遍的な気品というものだ。
上品ぶったら、演じたら、下品になる。

身の回りをよく理解し、自分ができることに熱心に取り組む。
そんなクラシックなマインドを大切にしたい。


2017年12月30日

深呼吸から、はみ出さない


深呼吸をやめない。
なにをする時も。
深呼吸の世界で生きるように。

なかなか難しいが心掛けている。


2017年11月7日

悲しみと名付けられた感触


「体験」に毒は含まれていない。色もない。
「感情」も同様。そのなかに毒素や危険物は含まれない。

怒り、悲しみ、あらゆるストレス、それらはみな「身体感覚を無視する不快感」に名前が付けられたものだ。
身体感覚をまんべんなく感じ、その中心に居続ける…その、安らぎがあり心地良く力に満ちた状態…そこを離れようとする時、われわれの体内には心許ない「不快感」が生じる。
それらの感覚が種類に応じて「怒り」「悲しみ」「不安感」「焦り」「嫉妬心」などとそれぞれに呼ばれているのだ。

トラウマが生じる現場にあるのは「悲劇」ではない。
「身体感覚の無視」だけである。
同じ出来事によって傷つく者もいれば傷つかない者もいる。
その体験において「当事者が」「身体感覚を無視したか否か」だけが問題だ。
そこでの展開は、当事者それぞれの性質によりパターンが異なる。

あらゆる体験は、「身体感覚と同化しながらの体験」と「身体感覚を無視しながらの体験」の2つに分けられる。
前者が多いなら問題ない。
後者への偏りが、一時の不快と、悪くすればその後にも続く混迷、すなわち人生のあらゆる「満たされなさ」へ続く入り口になるのである。