『 持ち物』『能力』もいいが、それより
『自分と自分の人生をどれだけ好きか』の上位を目指したい。
それはきっと誰もがどこからでも上位入賞を目指せるレースである。
「正解はない 」とよく耳にするが、本当はほとんどの場合に正解はある。
「正解を選べないことに罪がない」だけである。
物ごとはしばしばすれ違うけれど、多くの場合、物事は単純だ。
すべきことは、「時に最良な結果を導けないこともある」と肝に銘じて自他を許しつつ、見えている正解を堂々と信じ続けることだろう。
ルールというものは
それ自体を守るためではなく「それさえ守れば、その他は自由でOK」と線引きするためにある
と思っておくのが良い。
義務についてでなく、その外にある自由へ目を向けておく。
ルールを守ることは大切だが、それによって自他を過剰に縛らぬよう気をつけたい。
「自分よりも苦労している人はいくらでもいる」と思えるようになったのは、逆説的だが「これ以上ない」と感じる苦痛を経験したあとだった。
どうしても引受けねばならぬことがあり、それが理由もなく平気で外からやってくる。
始めからそういうものだったと、世界のありのままの姿を知りようやく盲目から醒め、人の世の入り口に立てた。
自分の恵まれた点に目がいかないうちは、他者の戦いに真に目がいくこともない。
「私よりも苦労している人はいくらでもいる」と言葉では知りながら、実際は他人など眼中にないのが常である。
そういう盲目を、必ず打破しなければならないとも思わない。
打破せざるを得ない状況・運命が存在するというだけのことだ。
けれども、そんな盲目を切り開く道こそ、人間に生まれた醍醐味を最大に感じさせてくれる言わば贅沢さを秘めている、そう感じている。
日常のほとんどの場所に、哲学思想は不要である。
1日の大部分は「いつも通り」で構成され、惰性で過ごす時間が圧倒的に多いからだ。
一方、哲学思想と呼ばれるものの方も、実用的なものはごく一部であるように思う。
必要かつ有用な哲学思想とはどういうものか、それは
『自分しか頼るものがない状況下で「自分がすべき事」へ注力する助けになる』思想である。
親愛というのは
それのみが独立して存在するものではなく
義務めいたものや試験めいたものを帯びるものでもなく
相手が大切にしている物事を自分も大切にしたいと思い、
相手が許さない物事を自分も許したくないと思う、
その思いのこと。
正面へ提示する「もの」でなく並び歩く「こと」。
あの人が私を大切にしてくれたから、私も私を大切にしたい。
並び歩いてくれたことに感謝して
これからも並び歩きたいと思うから。
人に感謝すべきこと。
私がうれしく感じるのは、ささやかでも私を「大事に思ってくれた」ことだ。
私を尊重しフォローしてくれた、その気持ちに感謝したい。
私の心の奥へ届いてるのは相手のその「気持ち」である。
私を一瞬でも応援してくれた人がいたら、そのことを私は決して忘れたくない。
一生のうち、幾人からそういうものを受け取れるだろうか。
逆も言える。
これまで自分は、見栄としての善行を差し出したことはなかったか。
これからは打算やムリなく、自然に心を込めたものだけでいこうと思う。
表面的な行動の奥の、そうした親愛のやりとり。
そのまわりに「絆」や「仲間」といったものが生まれてくる。
それらの言葉は好きでなかったし、今なお胡散臭いとも思っている。
ただ、それはそれで一つの自然にはちがいない。
応援してくれた「心」に感謝し、残りは全て自分の責任として背負う。
そんなふうに生きたいと最近思う。