2017年12月30日
2017年11月7日
悲しみと名付けられた感触
「体験」に毒は含まれていない。色もない。
「感情」も同様。そのなかに毒素や危険物は含まれない。
怒り、悲しみ、あらゆるストレス、それらはみな「身体感覚を無視する不快感」に名前が付けられたものだ。
身体感覚をまんべんなく感じ、その中心に居続ける…その、安らぎがあり心地良く力に満ちた状態…そこを離れようとする時、われわれの体内には心許ない「不快感」が生じる。
それらの感覚が種類に応じて「怒り」「悲しみ」「不安感」「焦り」「嫉妬心」などとそれぞれに呼ばれているのだ。
トラウマが生じる現場にあるのは「悲劇」ではない。
「身体感覚の無視」だけである。
同じ出来事によって傷つく者もいれば傷つかない者もいる。
その体験において「当事者が」「身体感覚を無視したか否か」だけが問題だ。
そこでの展開は、当事者それぞれの性質によりパターンが異なる。
あらゆる体験は、「身体感覚と同化しながらの体験」と「身体感覚を無視しながらの体験」の2つに分けられる。
前者が多いなら問題ない。
後者への偏りが、一時の不快と、悪くすればその後にも続く混迷、すなわち人生のあらゆる「満たされなさ」へ続く入り口になるのである。
2017年11月6日
2018年 ダイアリー
手帳シーズンの到来である。
来年は、『SANNOアルファウィークリー・B6判』を使うことにした。記入スペースが充実しつつ佇まいは縦長で、好みのバランスだ。
この商品は前から知っており、B6スリムという形状やフォーマット、180度開くところなど、好きなポイントは多かった。
しかしメモページが多いため全体が厚くなり、手触りもゴツい感じになっていて、どうしてもそれに馴染めなかった。
しかしこの2018年版で重要なリニューアルがあった!
何気なく書店で手に取ったところ、感触が今までと明らかに違って柔らかい。
観察してみると、カバーを外した本体の表紙が、ボール紙のような厚めの紙質から薄いツヤツヤのものに変わっていたのだ。
(画像2枚目。下のグレーのザラザラのが旧版。上のが新版。色も違う)。
よくしなるので開閉の感触が柔らかく、トータルの厚みもやや減って、特に背表紙あたりの手に当たる感触が違う。
表紙の素材でこんなに変わるのか、と軽く驚くほどの違いである。
うれしい改変である。今後はこれ一筋でいきそうな予感だ。
2017年10月31日
無かったことにする
心を病んだ人間がいるとする。性格が歪んだ人間でもいい。
その人物が仮に、実際の人生とは異なる「ほぼ何も経験しなかった」人生を歩んだと想像してみる。たとえば健康だけ管理され、その他の体験を限りなくゼロにしたような、特殊な状況で生きた場合などを想像する。無論、成功体験もトラウマ経験もない。
それでもその人は、同じように時が来れば心を病み始めるだろうか?
それはないだろう。何の体験もなしに「(重度の)心の不自由さ」だけが時とともに到来することは無さそうに思われる。「当然だ、トラウマもストレスもなく心が病むわけがない」と多くの人も思うだろう。
日常を生きるわれわれは、「遺伝」「出自」「宿命」などの影響の話ばかりしたがるものだ。しかし上記のように考えてみれば分かるように、人間の「重度の偏り」が出来上がるためには「経験」が必要である。
宿命を呪いたくなることがあっても、実際のところ(遺伝に偏りがあった場合でさえ、)「経験」から影響を受けることがなければ「極端な問題」は生じなかっただろう。
経験が人をつくる、という事である。
経験が人をつくる、という事である。
ただそう知ったところで、人間は経験を重ねずに生きることは不可能で、また過去を変えることも出来ないわけだから、無意味と思うかも知れない。
だからこそ人生は厳しいのだ、と。
たしかに経験した事実は消せず、時間を戻すこともできない。
しかし、過去の経験が持つ「意味」を変えることができれば、過ぎ去った事実に対抗することができる。
過去を「前提」「動かせぬもの」と認識するのでなく、意味を与え直す。
それによって、経験から自身が受けた影響も変化させることが出来る。
それを行えるのが、「瞑想」である。
ポイントは身体感覚である。
そもそも経験とは何か・経験から受けた影響が自身の内に残り続けるのはなぜなのか、
それらの答えは「身体感覚」にある。
経験は文字通り「体験」として身体の神経にその都度追加されながら刻まれていく。
身体をゆったり労わり、身体の感覚に良く意識を注ぎながら過ごすことで、かつて衝動的に自身の身体に刻みつけてきた「防衛のための構造」を解いていけばよい。
心の歪みや癖は、身体面から取り除くもの・取り除いていけるものだ。
絶対的な「宿命」というものは存在していない。
だからこそ人生は厳しいのだ、と。
たしかに経験した事実は消せず、時間を戻すこともできない。
しかし、過去の経験が持つ「意味」を変えることができれば、過ぎ去った事実に対抗することができる。
過去を「前提」「動かせぬもの」と認識するのでなく、意味を与え直す。
それによって、経験から自身が受けた影響も変化させることが出来る。
それを行えるのが、「瞑想」である。
ポイントは身体感覚である。
そもそも経験とは何か・経験から受けた影響が自身の内に残り続けるのはなぜなのか、
それらの答えは「身体感覚」にある。
経験は文字通り「体験」として身体の神経にその都度追加されながら刻まれていく。
身体をゆったり労わり、身体の感覚に良く意識を注ぎながら過ごすことで、かつて衝動的に自身の身体に刻みつけてきた「防衛のための構造」を解いていけばよい。
心の歪みや癖は、身体面から取り除くもの・取り除いていけるものだ。
絶対的な「宿命」というものは存在していない。
2017年10月20日
2017年10月3日
自分を起点に
心が健康な人間は、「(わたし)色」に染まった世界を生きている。
自分のことは単に(わたし)と見て、他者のことは「(わたし)に似た他者」と見ている。
(つまり他者を共感・信頼に足る存在として見ている)
すべて(わたし)を起点にした、「(わたし)色」の世界。
心を病む人間は、(他者)で満ちた世界を生きる。
自分のことを「(他者)に認識されているわたし」とイメージし、他者は単に(他者)。
どちらも(他者)発の、「(他者)から見た世界」である。
自分の色を塗り広げることを楽しむ人生と、自分がいない人生。
その重大すぎる差を自覚さえできぬ悲しさ。
2017年9月28日
2017年9月8日
受け容れる心
人の一生において、心の歪みは年月とともに少しずつ増していく。
天真爛漫さは損なわれ、警戒心は増え、興味は狭まり、考えも固くなり。。。
それに伴って身の回りの環境が楽になっていけば一応バランスは保たれる。
生き方が見つかったり、仲間と呼べる相手が見つかったり、収入が増えたり、大きなイベントが片付いたり。。。
つまり、「適応力の低下」による損失が、「厄介ごとの減少」によってカバーされていけば問題は少ない。
いい会社に入ろうとかいい人・モノに出会おうとかそういうことに早くから取り組めば、そのメリットが得られるかもしれない。「厄介ごと」が早めに片付くメリットだ。
当たり前としか言いようがないそんなことを、年取ってから今改めて考えたりする。
人生はままならないものだ。いや、実際どうなのだろうか。
取り敢えず言えるのは、「人生のままならなさ」を知ることが人生の醍醐味の一つだとは思う。
いや、醍醐味の一つというより最大の醍醐味の一部でなかろうか。
自分の安定ばかりを求める、そんな生き方は、楽しくない・幸福でない未来に向かうほかないのではないだろうか。
自分の安定ばかりを求める、そんな生き方は、楽しくない・幸福でない未来に向かうほかないのではないだろうか。
2017年8月25日
コンタクトレンズ
コンタクトレンズが眼球の表面に張りつく感触。
これを瞑想で認識する。
眼の表面もけっこう力んでいるものだ。
それといつものように、その眼とともに「その他の全身」の感覚も。
部分の意味は常に全体との関連で定まる。
2017年8月4日
キャラ無用
自分がいわゆる「肉食系」でないからと言って「温和で優しい」かと言えば、そうとは限らない。
思い込みのキャラを自分に押し付けてはいけない。
一貫性をもたせようとか、分かりやすくしようとかしてもいけない。
肉、草、どっちを食してもいい。
「自分がラク」なのが自分にとって正しいスタイル。
そしてその時のキャラが「私」というキャラ。
2017年7月28日
バカは風邪ひかない
「バカは風邪ひかない」と言われるが、私は風邪をひいたバカを何度も見たことがある。
けれども、やはり「滅多に風邪をひかない」という人に出くわすと、たしかに所謂バカっぽいタイプであることが多い。
バカは風邪ひかないわけじゃないが、風邪ひかない者はやっぱりバカかもしれない。
免疫が強い者は風邪をひきにくい。
免疫の強さは、性格のポジティブさに概ね比例する。
ポジティブな人ほど風邪を引きにくい、
ポジティブというのは、バカっぽい「視野の狭さ」と同源のものだ。
そしてちなみに、それはエリートと呼ばれる者たちにも思いのほか多い性質である。
2017年7月21日
病気の姿を把握する
人間を「 心が正常で健康な人」と「それ以外」とに分けると、
前者は「深く考えない時間の最大化」、後者は「発散対象さがし」にほとんどの時間を割いている。
すなわち健康な状態の人間は「大したことを考えない」。
「面倒は避け、いまある快適さをなるべく継続させてくれる人や物事と関わろう」くらいしか頭にない。
病気の何が問題かと言えば、「自分の行動に自信が持てず悩ましいこと」と「身体的苦痛」であって、行動の「良し・悪し」ではない。
乱暴に言えば、健康とは行動の表面がよかろうが悪かろうがそれを「気にしない」状態のことである。
同じ社会で生きる者同士、価値観や習慣がすべて逆転するなどといったことは起こりようがなく、かなりの部分が共通する。また健康人にも不合理・無意味な行動はある。
そもそも人間は誰もが(健康か否かによらず)極めて曖昧な存在だ。
健康と不健康とを分けているのは、実際のところ思考習慣の一部である。
過大な自己嫌悪や失望などせぬよう、問題は正確に(そして出来るだけポジティブに)把握したい。
2017年7月14日
今日の音楽: Robert Glasper『Black Radio』
車でよく音楽を聴く。
今日は
ロバート・グラスパー『Black Radio』
(2012年)
ヒップホップ寄りのジャズ。
耳障りな音がなく流して聴きやすい。
ただしお洒落すぎて時々殴りたくなる。
昔からそうだが、私はジャズ全般を好きになりきれない人種のようだ。
12曲目、なんか聴き覚えあると思ったらニルヴァーナのスメルズライク~です。
2017年7月7日
たなぼたに便乗すな
美男美女がお洒落をするのを見ると、偶然美しく生まれたのを良いことにポイントを更に稼ごうとする行為に思えてしまう。
嫌悪まではしないが、ある種のモヤモヤ感を抱いてしまう。
労せずに「持っていく」盗っ人、という認識。
念のため言っておくと、私は他人に嫉妬するほど不細工ではない。
嫉妬せずに済む程度の不細工である。
2017年6月30日
自分を好く
心の健康のためには、自分を嫌ってはいけない。
自分の心にに逆らうことになる。
自分の左手に「左手さん」と名付けてみた。
日常的にしばしば視界に入る、私の左手。
右利きの私にとって右手よりも少し出番が少ないけれども、よく見慣れた左手。
その辺の見知らぬ人と、この「左手さん」、どちらが好きか?
私は「左手さん」の方が少し好きだ。
そこらの他人よりも私は「左手さん」が好きである。
日頃世話になっている、何しろ自分の手だ。
無論、「右手さん」も「左手さん」と同様、
「足さん」「背中さん」も同じだ。
私はけっこう自分が好きだ。
* * * * *
自分でさえが、自らを批評しがちである。
能力や容姿などについて、専ら欠けている部分に注目して、あーだこーだ、ああなりたいこうしたいと、願望を抱く。
自分が既に出来ることについては、こき使って当たり前とばかりに、労いもしない。
何かが出来ると言うことは、なんであれ素晴らしいことだというのに。
私達は、根本的には自分のことを好いている。
自分がとても嫌いだと思っていた頃さえ、思い返せばそう変わらない。
自分に期待し、心配し、応援しようと思っていないならば「嫌いだ」などとわざわざ思わない。
好きでもない自分に落胆もしない。
もし何かで傷つき、自分を嫌いだと思いそうになったら、そんな苦境に立ち向かってる自分はエラいと思うようにしたい。
嫌うなどとんでもない。「今日も頑張っている」と褒めたい。
私達は、常に自分を心の奥底では応援している。
それを生かす。逆らわない。
積極的に応援していきたい。
2017年6月23日
働く場に求めるもの
会社に、パフォーマンスの高さに極端に高い関心を持っている人間がいる。
それ以外には目を向けない感じである。
偉い立場の人だ。
自らもその能力で出世し、能力の高さこそが人間の価値だと思っているようである。
仕事において業務遂行能力は不可欠だ。しかしその有無についてでしか人間を語れないのは悲しい。
会社の同僚というのは、縁あって同じ場に属することになった間柄だ。
絆とか仲間とか言う気は無いが、稀な縁であることは確かである。
そんな相手を「デキナイからあいつは今一つだ」なんて言っているより、出来ないことが出来るようになる、正しく学べる、そういう環境を全員が目指していることのほうが価値がある。
できる・できないへの評価はあって然るべきだ。
大切なのは「今日も得るものがあった」と思える会社になっているかということだ。
人を見て学びたいと思う。感謝したいと思う。
私が会社の偉い人なら、そういう環境づくりに向かっている者を高く評価する。
何だかんだ言っても仕事に関わる時間は長い。
その時間を納得いくものに近づけて、生活の効用を高めていきたいものだ。
会社の同僚というのは、縁あって同じ場に属することになった間柄だ。
絆とか仲間とか言う気は無いが、稀な縁であることは確かである。
そんな相手を「デキナイからあいつは今一つだ」なんて言っているより、出来ないことが出来るようになる、正しく学べる、そういう環境を全員が目指していることのほうが価値がある。
できる・できないへの評価はあって然るべきだ。
大切なのは「今日も得るものがあった」と思える会社になっているかということだ。
人を見て学びたいと思う。感謝したいと思う。
私が会社の偉い人なら、そういう環境づくりに向かっている者を高く評価する。
何だかんだ言っても仕事に関わる時間は長い。
その時間を納得いくものに近づけて、生活の効用を高めていきたいものだ。
2017年6月16日
最強の瞑想法
「最強の〇〇」とかありがちな本のタイトルのようになってしまったが、瞑想愛好家としての私の見解を述べさせてもらうと
ネット、スマホと縁を切ること
が最強の瞑想法だ。
実行すれば、生活の瞑想的・マインドフル度合いが間違いなく劇的に向上するだろう。
と、私もネット上で述べているわけだけれども。。。
ネット・スマホは心の健康上とにかく有害だ。
世の中の全員が真剣に瞑想の修行をするなどし、一丸となって心の健全さ・豊かさを追求する時代になっても、ネット・スマホが残っている限りほとんどの努力は台無しになり続けるだろう。
2017年6月9日
RIGAOS スタイリングワックス
いわゆる整髪料の話だが、
Rigaos StylingWax という商品しか合わない。
自分が勝手にやりたい髪型に合うというだけ。
他の商品に非があるわけではないだろう。
でも私にとって、ないと少し困るもの。
なのにあまり売っていない。
とくに高級でもないのに。
うーむ。
2017年5月26日
全身体操
瞑想の効用をなるべく小さい労力で実現する。
その方法を、少しずつだがずっと考えている。
最近うすうす「体の動かせる部分すべての小さな体操」だけでいいのでは、とも思い始めている。
* * * * *
「体の、動かせる部分すべての小刻みな運動」…
例えば頭部だけでいえば、
眉毛を上げ下げできる、
まぶたは開け閉め、
眼球はタテ・ヨコ・回す、という風に動かせる、
鼻は鼻孔の開け閉め、
口の開け閉め、アゴの左右の運動、
舌を出したり引っ込めたり、横に動かしたり。
首は倒したり、回したり、振ったり。
眉間、鼻の頭?表情筋全体を動かす。
といった具合に、「動かせる箇所」をぜんぶ、軽く動かす。
力むのは良くなくて、「大きく」や「速く」は意識しない。
関節、筋肉、いろいろ全部やるのはもちろんかなりの手間だが、一番近道な気がする。
2017年5月20日
2017年5月12日
今日の音楽:Tahiti 80 『Fosbury』
車でよく音楽を聴く。
今日は
Tahiti 80 『Fosbury』
(2005年)
「好き」なアルバムや「思い入れがある」アルバムが、「長年聴ける」アルバムとは限らない。
この作品は、思い入れはさほどでないが長年好んで聴いている。
重くなく、軽すぎず。
ほどよく洒落た良盤だ。
2017年4月21日
2017年4月14日
当たり前すぎること
あらゆる物事に、大きくかつ複雑に「偶然」が介在している。
明確に比較できるものは一つとして無い。
同じゴールに到った者同士でも、スタートは異なる。
当然より遠い所・低い所からスタートした方がエライ。
しかし誰がどこから歩いてきたか知りようがないし、歩き方にも天性のセンスが介在する。
すなわち比べる場も術もないのだ。
しかしそれでも、否、だからこそ人は何かに向かって努力すべきだ。
その方が、価値ある経験ができるから。
そうすることで人生の醍醐味を味わえるからである。
知るべきは「人を見下すのは本来おかしい」ことと「人に嫉妬する必要はない」ことの2点。
見下しも嫉妬も、それらをバネとして使いたい人が好んで使っているだけの活力剤だ。
とくに内容的に適正なものではない。
ところでだが、一般的に上記のような思考はタブーだ。
タブーと言うか、自他の双方から見て甘えのように感じられがちで、あまり使いどころがない。
しかし、「病人になったらとるべき」思考は、案外そのようなものの中に多いとしばしば感じる。
「立ち位置」を定める能力がフッ飛ぶのが「心の病」で、それに陥ると本当にいろいろな事を一から考えさせられる。
これまで当たり前すぎて気に留めていなかったこと、何度もきいて知っているつもりだったこと、そういう中から改めて大切さに気付くことが多く、あらためて座右の銘になったりもする。
それほど世の中が、そこで生きる者達に色んなことをすっ飛ばして前進することを強いている世界であることの表れかもしれない。
2017年4月7日
仕事をラフに
うつ病的な人は、仕事の業務を「軽視」すべきだ。
業務に対する愛が欠如してよい。
それを不誠実に感じても、心配いらない。
病的な人が気遣いをずいぶん減らしたとしても、一般人よりはそれでも多い。
非礼をして回れというのではない。
心の中の感触の話である。
2017年3月24日
2017年3月17日
品ある配慮
「格差」に注目するなと以前書いたが、「差別用語」にも似たことを思う。
過剰な気遣いのせいで、かえって強調されることもある。
「いたわり」と称する行為が相手を見下しているような場合もある。
直面している当人達は案外強いものかもしれない。
それを背負って日々を生き抜いている。
自己満足的な配慮コトバが飛び交うのは、社会的にも品が疑われる。
それを良しとするような感性の低い世の中になって欲しくない。
2017年3月3日
身体の開発が頭に効く
腕をうまく扱うには、腕を鍛える?……NO、全身を鍛える。
足腰をうまく扱うには、足腰を鍛える?……NO、全身を鍛える。
「全身を」活性化することで「頭」がうまく働く。
「頭」がうまく働けば、指令がうまく出せて身体のどの部分もセンス良く扱える。
「部分」はつねに「全体における一部」として動く。
全体の健全性がなければ、部分の最適なコントロールは出来ない。
全身を鍛えると言っても、全身の筋トレは必要ない。
「まんべんなく使う」だけでいい。
力みすぎれば歪んでバランスを見失うので、軽く動かすくらいがベスト。
いろんな動作をしてみよう。
2017年2月24日
メモ 自分の身体を感じやすくする方法
■身体を動かす
→ ゆする、軽く回転させる、軽いストレッチ、スローモーション
■身体の停止状態をキープ
→ ストップモーション
■身体に触る
→筋肉や筋などを自分で揉む、軽くたたく、体表をさする
■身体を温める
→ 温風、風呂
■身体に感謝する
→ 体の各部位に感謝の意識を向ける
2017年2月10日
親を許す
心を病む者が親との関係に問題を抱えていることはよくある。
そういうケースでは、「親を許す」ことで自由を手に入れていくというのが王道だ。
「許す」といっても、好きになって仲良くせよとか感謝せよとか、そういうことではない。
親も言わば「非力なひとりの人間」に過ぎないという、当たり前のことに目を向けよということである。
自らを縛るような「許すまじ」の感情は手放せということだ。
相手のためにでなく、自分のために。
ただしそれは場合によっては困難な作業になりうる。
考えが進み期が熟すまで、進めようと思っても進められるものではないかもしれない。
親という存在は特殊・特別だ。
子は、親というものを限界まで好きでいようとするものだ。親を疑いながら育ててもらうというのは、本能的に不可能だろう。
子は親を信用するのだ。
したがってそれに反する事実に向き合わねばならない時、例えば親に「騙された」「裏切られた」「攻撃された」のだと認めねばならない時、その衝撃と喪失感は激しいものとなる。
そしてその激しさは、そのまま親へ向けられる「怒り」の激しさへ繋がっていく。
そのようなことが自分に起こった時のことを思い返す。
私は全て「なかったこと」であって欲しいと思っていたように思う。
強く優しい親に帰ってきて欲しかった。
「悪かった。これから変わるよう頑張るから。」そう親が言ってくれることを望んでいたように思う。
その望みは叶わなかった。
しかしそれは彼らが邪悪だからではなく、「とにかく仕方が無かった」からだと思えるようになったのは随分あとでのことで、当時の私は期待をどこまでも裏切る親に対し、存在をかけて敵意を向けるしか術を持たなかった。
親が与えてくれた「真っ当なこと」の方に目を向ける余裕など有りはしなかった。
自立
一時は心底から敵視した家庭というものに対し、今の私は負の感情を抱いていない。しかしどうやって敵意を乗り越えたか、それを一言で述べるのは難しい。
一つ言えることは、私がもう少し社会的に成功し、多くのものを手に入れていたら、親に対する敵意を今なお消せていなかったような気がしている。少なくとも随分とあとになったことだろう。
冷静になれば、親など関係ない不遇が世界には溢れている。
その世の中の「ままならなさ」については、何をどう述べてよいか分からないくらいだ。
自分はスーパーマンでないし、王族でもないし、楽園にも住んでいない。
また運というものに必然性もない。
どう考えたところで、それらの事実が揺らぐことはない。
ともかく私の親が「望ましい」ことを果たせなかったのは事実として、それを落ち度として彼らに全責任を押し付けるのは、世の中の成り立ちから言っても少し違うように感じるようになった。
考え続けた末に私にもたらされた結果は、そのような形のものだった。
諦めの先
「強い絆で結ばれた」という表現がピッタリの、とても仲のよい親子を見ることがある。誰もがそのようになれるわけではないだろうし、なる必要もないだろう。
絶対的な信頼感、それは貴重で掛けがえないものだろう。
しかしある種の諦めを知った、つまり現実を受け入れた後に見えてくる、地に足のついた関係もまたよいものだと思う。
何を与え合うかだけで単純に判断されない、「皆がその人なりに一生懸命」という認識の上に築かれる、尊重と思いやりがある世界。
その世界は誰にでも常に残されているものだと信じている。
2017年2月3日
格差について騒がない
騒ごうとどうしようと世界は元から格差ばかりだ。
格差格差と騒ぐから「低いと不幸なんだ、カッコ悪いんだ」という空気が助長される。
大して物を持たなくたって、楽しく明るく生きている人々はいる。
にもかかわらず、その事実や意味について考えることをやめさせようとするような論調が世間に渦巻いている。
傷つく必要のない人までが傷つき、恐れ、わが身ばかり案ずる風潮が加速している。
「困っている人を見たら助けよう」、だけでいいはずだ。
それが「格好いい」人だ。
また、助けてもらって素直に感謝できる人も「格好いい」人。
その2つだけ知っていればいいんじゃないか。
「何を持っているか」など、大部分は成りゆきのが結果にすぎないことだ。
然るに格好良さには関係ないこと。
その多寡に振り回されるというのは、愚かなことだ。
2017年1月27日
2017年 ダイアリー
今年のダイアリーはシステム手帳でいくことにして、10年近く前に買ったbindex「クリア」の黒のバインダーを引っぱり出した。
いまさらのシステム手帳?いまさらなのか、一巡してまた支持されてるのか私には分からない。
ブームは過去の話、クラウド以降の「紙の手帳を持つのはスマートじゃない」空気にも押され、今やスケジュール管理の道具としてはへビーすぎる代物なのかもしれない。
しかし私はエリートビジネスマンでも何でもないので、手帳ひとつの重さなどにあくせくせず、ゆったりいきたい構えである。
以前はリングがジャマに感じていたが、面倒をみれば当然普通に書けるし、むしろバタバタしないで丁寧に書くくらいが今の私の気分だ。
好きなようにカステムできる点はやはり良いと思う。
多少ものを挟んでもパンパンにならないので佇まいが変わらないところも好ましいと感じる。
2017年1月20日
深呼吸生活
うつ病などの改善に「効果があること」というのはたくさんある。
有名なものからそうでないものまで、じつに多様だ。
多くの患者に効果がみられたという方法なら試す価値はあるだろうし、また突飛なものや少数だけに効果があったというものでも、その改善が確かであったのなら何かしらの的をとらえた部分があったに違いない。
しかしその全てを試すことはムリだろう。
時間や労力に限界があるし、それぞれ好みのようなものもある。
「効果がありそう」で、かつ「やる気がする」ものを縁に導かれつつ試していくしかない。
それでいいと思う。
むやみに凝るより「なり行き」にまかせた方が良いことも多い。
ただしどの道をいく場合においても並行すべき、「万能で最強な習慣」というものがある。
大げさに言ったが、それは「深呼吸」だ。
腹式呼吸と言ってもいいが、敢えてカンタンに深呼吸と言っておく。
それもたまにでなく「一日中やる」くらいのイメージで行う。
つまり、治療のための〇〇をしている時間だろうがそれを終えて休憩する時間だろうが買い物に出かける時間だろうが、ずっと深呼吸で過ごす。
もともと朝から晩まで呼吸はしているわけだから、それらをすべて「深く」やれといってもそれほど無理な注文にはならないだろう。
ではやるぞ!と思って始めても、きっと気づけば忘れてしまう。
問題ない。そういうものだ。
そしたらまたその時点から始めれる。
少しでも多くできればそれでよい。
この深呼吸を生活のベースにおけば、あらゆる「治療のための〇〇法」が最大の効果を発揮するはずである。
2017年1月13日
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