2016年9月30日
無常の内の私とネコ
「人間は何のために存在するか」に絶対的な答えはない。
「運命に意味はあるか」も同様で、ただその運命はその運命だというだけだ。
また、最もスケールの大きい事実が終着点とは限らない。
私たちは「世界全体」ではなく、その中の単なる「人間」であるので、その在り方を考える際には常に「人間に何が必要か」という視点が不可欠だ。
とある天才ネコが、「なぜボクは生きるのだろう、ネズミなぞ反射的に追いかけ、何の意味があるのか」と思い悩んで何日もエサも取らずに弱っているとする。
それに対してどんな言葉をかけるだろうか。
きっと「君はエサを捕まえて誇らしい気持ちを味わい、元気に走り回っているといい。君にはそれが必要なんだ。君はネコで、そういう風に出来ているのだから。」と伝えるしかないだろう。
ネコはネコでいいのである。それ以上でもそれ以下でもなく。
ネコはありのままで十分に可愛いくカッコ良く、つまり完成されているのだ。
人間はどうだろう。
高尚な価値観を見据えて目の前の活力の元に手を伸ばさず、部屋の中で息絶え絶えになっている者がいたら。
人間とネコとは違う?いや違わないはずである。
あくまで人間は、人間という生き物である。
われわれは「概念」や「神様」ではないわけで、あくまで「人間」としての満たされるべき性(さが)を持っている。
そしてその「人間らしさ」の中に、私たちの完成した魅力がある。
人間は比較的高い知性によって、この世界が無常であることに思い至る。
しかし、無常の内に生きるからといって無常観を最上位の概念にすえる必要はない。
無常観にとらわれて、私は大いなる回り道をした。
しかし、「世界がどのように出来ているか」と「私に必要なものは何か」は別の話だと気づけことで、今日こうして生きられている。
2016年9月2日
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