2017年10月31日

無かったことにする


心を病んだ人間がいるとする。性格が歪んだ人間でもいい。
その人物が実際の人生とは違う、「ほぼ何も経験しない」人生を仮に歩んてきたと想像してみる。
たとえば健康だけを管理され、その他の体験を限りなくゼロにしたような、特殊な状況でこれまで生きてきたと仮定する。(無論トラウマ経験も成功体験もない。)
それでもその人は、同じように時が来れば心を病み始めるだろうか?

それはないだろう。何の体験もなしに「(重度の)心の不自由さ」だけが時とともに到来するということは、無さそうに思われる。
当然だ、トラウマもストレスもなく心が病むわけがない、と普通思うだろう。そのとおりである。
そのとおりなのだが、偏った出自・生い立ちなどを自覚し、「宿命」や「血」といったものを意識せざるを得なくなる精神状態が、世の中にはあるものだ。

しかし冒頭で考えてみたように、人間の「重度の偏り」が出来上がるには、「経験」が必要なのである。
宿命を呪いたくなることがあっても、実際のところ、(生まれ持った時点で性質に偏りがあった場合でさえ、)「体験」から影響を受けることがなければ「極端な問題」に発展しないだろう。
そもそも偏りや問題以前に、そもそもあらゆる人格形成の局面に自身による経験が不可欠であろうことは、考えてみれば当たり前だと思える。

ただしこうしたことを考えても、「当たり前で、そして無意味だ」と感じるだけかもしれない。
なぜなら、経験が人をつくると知ったところで「過去を変えることは出来ない」なら、どうしようもないからだ。
だからこそ人生は厳しいのだと。

たしかに時間は戻せないし、起こったことは変えられない。それは確かだ。
しかし、過去が持つ「意味」を変えることができれば、過ぎ去った事実に対抗することができる。
過去=「前提」「動かせぬもの」と認識するのでなく、自分にとっての意味を与え直す。それによって経験から自身が受けた「影響」も変化させる。
それを最も合理的に行えるのが、「瞑想」だ。
「経験」を言わば「無かったこと」にもできるのだ。

ポイントは身体感覚なのである。
経験とは何か、
そこから自分が受ける影響とは何か、
それらの答えはすべて「身体感覚」にある。
経験は文字通り「体験」として身体の神経にその都度追加されながら刻まれていく。身体をゆったりと労わり、身体の感覚にまんべんなく意識を注ぐよう心掛けながら過ごしていくと、感情や情動の癖を「支えていたものが次第に解けていく。

心の歪みは身体面から取り除くもの、取り除いていけるものだ。
「宿命」などはないのである。



2017年10月20日

「見る」を減らす


世の中に、「見る」べきものはそう多く無い。

目を使い過ぎている。

「見る」だけで何に活かすでもない、神経のムダづかい。


2017年10月3日

自分を起点に


心が健康な人間は、「(わたし)色」に染まった世界を生きている。
自分のことは単に(わたし)と見て、他者のことは「(わたし)に似た他者」と見ている。
(つまり他者を共感・信頼に足る存在として見ている)
すべて(わたし)を起点にした、「(わたし)色」の世界。


心を病む人間は、(他者)に満ちた世界を生きる。
自分のことを「(他者)に認識されているわたし」とイメージし、他者は単に(他者)。
どちらも(他者)発の、「(他者)から見た世界」である。


自分の色を塗り広げることを楽しむ人生と、自分がいない人生。

その重大すぎる差を自覚さえできぬ悲しさ。