2017年12月30日

深呼吸から、はみ出さない


深呼吸をやめない。
なにをする時も。
深呼吸の世界で生きるように。

なかなか難しいが心掛けている。


2017年11月7日

悲しみと名付けられた感触


「体験」に毒は含まれていない。色もない。
「感情」も同様。そのなかに毒素や危険物は含まれない。

怒り、悲しみ、あらゆるストレス、それらはみな「身体感覚を無視する不快感」に名前が付けられたものだ。
身体感覚をまんべんなく感じ、その中心に居続ける…その、安らぎがあり心地良く力に満ちた状態…そこを離れようとする時、われわれの体内には心許ない「不快感」が生じる。
それらの感覚が種類に応じて「怒り」「悲しみ」「不安感」「焦り」「嫉妬心」などとそれぞれに呼ばれているのだ。

トラウマが生じる現場にあるのは「悲劇」ではない。
「身体感覚の無視」だけである。
同じ出来事によって傷つく者もいれば傷つかない者もいる。
その体験において「当事者が」「身体感覚を無視したか否か」だけが問題だ。
そこでの展開は、当事者それぞれの性質によりパターンが異なる。

あらゆる体験は、「身体感覚と同化しながらの体験」と「身体感覚を無視しながらの体験」の2つに分けられる。
前者が多いなら問題ない。
後者への偏りが、一時の不快と、悪くすればその後にも続く混迷、すなわち人生のあらゆる「満たされなさ」へ続く入り口になるのである。


2017年11月6日

2018年 ダイアリー


手帳シーズンの到来である。
来年は、『SANNOアルファウィークリー・B6判』を使うことにした。記入スペースが充実しつつ佇まいは縦長で、好みのバランスだ。

この商品は前から知っており、B6スリムという形状やフォーマット、180度開くところなど、好きなポイントは多かった。
しかしメモページが多いため全体が厚くなり、手触りもゴツい感じになっていて、どうしてもそれに馴染めなかった。

しかしこの2018年版で重要なリニューアルがあった!
何気なく書店で手に取ったところ、感触が今までと明らかに違って柔らかい。
 観察してみると、カバーを外した本体の表紙が、ボール紙のような厚めの紙質から薄いツヤツヤのものに変わっていたのだ。
(画像2枚目。下のグレーのザラザラのが旧版。上のが新版。色も違う)。

よくしなるので開閉の感触が柔らかく、トータルの厚みもやや減って、特に背表紙あたりの手に当たる感触が違う。
表紙の素材でこんなに変わるのか、と軽く驚くほどの違いである。
うれしい改変である。今後はこれ一筋でいきそうな予感だ。




2017年10月31日

無かったことにする


心を病んだ人間がいるとする。性格が歪んだ人間でもいい。
その人物が実際の人生とは違う、「ほぼ何も経験しない」人生を仮に歩んてきたと想像してみる。
たとえば健康だけを管理され、その他の体験を限りなくゼロにしたような、特殊な状況でこれまで生きてきたと仮定する。(無論トラウマ経験も成功体験もない。)
それでもその人は、同じように時が来れば心を病み始めるだろうか?

それはないだろう。何の体験もなしに「(重度の)心の不自由さ」だけが時とともに到来するということは、無さそうに思われる。
当然だ、トラウマもストレスもなく心が病むわけがない、と普通思うだろう。そのとおりである。
そのとおりなのだが、偏った出自・生い立ちなどを自覚し、「宿命」や「血」といったものを意識せざるを得なくなる精神状態が、世の中にはあるものだ。

しかし冒頭で考えてみたように、人間の「重度の偏り」が出来上がるには、「経験」が必要なのである。
宿命を呪いたくなることがあっても、実際のところ、(生まれ持った時点で性質に偏りがあった場合でさえ、)「体験」から影響を受けることがなければ「極端な問題」に発展しないだろう。
そもそも偏りや問題以前に、そもそもあらゆる人格形成の局面に自身による経験が不可欠であろうことは、考えてみれば当たり前だと思える。

ただしこうしたことを考えても、「当たり前で、そして無意味だ」と感じるだけかもしれない。
なぜなら、経験が人をつくると知ったところで「過去を変えることは出来ない」なら、どうしようもないからだ。
だからこそ人生は厳しいのだと。

たしかに時間は戻せないし、起こったことは変えられない。それは確かだ。
しかし、過去が持つ「意味」を変えることができれば、過ぎ去った事実に対抗することができる。
過去=「前提」「動かせぬもの」と認識するのでなく、自分にとっての意味を与え直す。それによって経験から自身が受けた「影響」も変化させる。
それを最も合理的に行えるのが、「瞑想」だ。
「経験」を言わば「無かったこと」にもできるのだ。

ポイントは身体感覚なのである。
経験とは何か、
そこから自分が受ける影響とは何か、
それらの答えはすべて「身体感覚」にある。
経験は文字通り「体験」として身体の神経にその都度追加されながら刻まれていく。身体をゆったりと労わり、身体の感覚にまんべんなく意識を注ぐよう心掛けながら過ごしていくと、感情や情動の癖を「支えていたものが次第に解けていく。

心の歪みは身体面から取り除くもの、取り除いていけるものだ。
「宿命」などはないのである。



2017年10月20日

「見る」を減らす


世の中に、「見る」べきものはそう多く無い。

目を使い過ぎている。

「見る」だけで何に活かすでもない、神経のムダづかい。


2017年10月3日

自分を起点に


心が健康な人間は、「(わたし)色」に染まった世界を生きている。
自分のことは単に(わたし)と見て、他者のことは「(わたし)に似た他者」と見ている。
(つまり他者を共感・信頼に足る存在として見ている)
すべて(わたし)を起点にした、「(わたし)色」の世界。


心を病む人間は、(他者)に満ちた世界を生きる。
自分のことを「(他者)に認識されているわたし」とイメージし、他者は単に(他者)。
どちらも(他者)発の、「(他者)から見た世界」である。


自分の色を塗り広げることを楽しむ人生と、自分がいない人生。

その重大すぎる差を自覚さえできぬ悲しさ。





2017年9月28日

「王道」「スタンダード」について


「王道」や「スタンダード」に完璧に徹して

小手先や思いつきに一切逃げないというなら

それはある意味、かなりハードボイルドだ。


2017年9月8日

受け容れる心


人の一生において、心の歪みは年月とともに少しずつ増していく。
天真爛漫さは損なわれ、警戒心は増え、興味は狭まり、考えも固くなり。。。

それに伴って身の回りの環境が楽になっていけばバランスは取れる。
生き方が見つかったり、仲間だと確信できる相手が見つかったり、収入が増えたり、大きなイベントが片付いていったり。。。

つまり、「適応力の低下」による損失が、「厄介ごとの減少」によってカバーされていれば問題は少ない。
いい会社に入ろうとかいい人・モノに出会おうとかそういうことに早くから取り組めば、そのメリットが得られるかもしれない。「厄介ごと」が早めに片付くメリットだ。

当たり前としか言いようがないそんなことを、年取ってから今改めて考えたりする。しかし、やはりだからどうということでもないと思う。

人生はままならないものだ。いや、ままなることはあるし、ままなってはいけないというわけでもない。しかし一つ言えることは「人生のままならなさ」を知ることが人生の醍醐味の一つだと思っている。いや醍醐味の一つという以上に、人間として生きる最大の醍醐味には、そこからしか到達しえないのではないか。

自分の安定ばかりを求める、そんな人間や風潮は、楽しくない・幸福でない未来に向かうほかないのではなかろうか。




2017年8月25日

コンタクトレンズ


コンタクトレンズが眼球の表面に張りつく感触。
これを瞑想で認識する。
眼の表面もけっこう力んでいるものだ。


それといつものように、その眼とともに「その他の全身」の感覚も。

部分の意味は常に全体との関連で定まる。


2017年8月4日

キャラ無用


自分がいわゆる「肉食系」でないからと言って「温和で優しい」かと言えば、そうとは限らない。

思い込みのキャラを自分に押し付けてはいけない。
一貫性をもたせようとか、分かりやすくしようとかしてもいけない。

肉、草、どっちを食してもいい。
「自分がラク」なのが自分にとって正しいスタイル。
そしてその時のキャラが「私」というキャラ。


2017年7月28日

バカは風邪ひかない


「バカは風邪ひかない」と言われるが、私は風邪をひいたバカを何度も見たことがある。

しかしやはり「滅多に風邪をひかない」という人に出くわすと、たしかにだいたいバカのようなタイプだ。
バカは風邪ひかないわけじゃないが、風邪ひかない者はやっぱりバカかもしれない。

免疫が強い者は風邪をひきにくい。
免疫の強さは、性格のポジティブさに概ね比例する。
ポジティブな人ほど風邪を引きにくいわけだ。
そのポジティブというのは、バカの「視野の狭さ」と同源のものだ。

そしてそれはエリートと呼ばれる者たちに案外多い性質である。


2017年7月21日

病気の姿を把握する


人間を
① 心が正常で健康な人
②それ以外

の2つに分けると、①は「深く考えない時間の最大化」、②は「ムシャクシャを解消してくれる発散対象さがし」にほとんどの時間を割いている。
病人はこのことをよく知っておくべきだ。
すなわち健康な状態の人間は「大したことを考えていない」ということをだ。
「面倒は避け、いまある快適さをなるべく継続させてくれる人や物事と関わろう」くらいのことしか考えない。

病気の何が問題かと言えば、「自分の行動に自信が持てず悩ましいこと」と「身体的苦痛」であって、行動の「良し・悪し」ではない。
健康状態にある人間と病気の人間の行動の表面的なちがいに意味はない。
それらは実際に「全く別物」にはならないのだ。
同じ社会で生きる者同士、価値観や習慣がすべて逆転するなどといったことは起こりようがなく、かなりの部分が共通する。また健康人にも不合理・無意味な行動はある。
そもそも人間は誰もが(健康か否かによらず)極めて曖昧な存在なのである。

末節にとらわれると、確実に時間をムダにする。
乱暴に言えば、健康とは、行動の表面がよかろうが悪かろうがそれを「自分で気にしない」状態のことなのである。


2017年7月14日

今日の音楽: Robert Glasper『Black Radio』


車でよく音楽を聴く。

今日は
ロバート・グラスパー『Black Radio』
  (2012年)

ヒップホップ寄りのジャズ。
耳障りな音がなく流して聴きやすい。
ただお洒落すぎて時々殴りたくなる。
昔からそうだが、私はジャズ全般を好きになりきれない人種のようだ。

12曲目、なんか聴き覚えあるなーと思うとニルヴァーナのスメルズライク~です。





2017年7月7日

たなぼたに便乗すな


美男美女がオシャレするのを見ると、たまたま美しく生まれたのを良いことにポイントを更に稼ごうとする行為に思えてしまう。
その個人を嫌悪するまではいかないが、そういう類の行為にいつも違和感を覚えてしまう。

労せずに「持っていく」のは盗っ人のすることだ、という感覚。
潔癖すぎるだろうか。

念のため言っておくと、私自身は人に嫉妬するほど不細工ではない。
嫉妬せずに済むくらいの不細工である。

2017年6月30日

自分を好く


心の健康のためには、自分を嫌ってはいけない。
自分の心にに逆らうことになる。

自分の左手に「左手さん」と名付けてみた。
日常的にしばしば視界に入る、私の左手。
右利きの私にとって右手よりも少し出番が少ないけれども、よく見慣れた左手。

その辺の人(知人の誰かでもいい)とこの「左手さん」、どちらが好きか?
私は「左手さん」の方が少し好きだ。
そこらの他人よりも私は「左手さん」が好きである。
日頃世話になっている、何しろ自分の手だ。

無論、「右手さん」も「左手さん」と同様。
「足さん」「背中さん」も同じだ。
私はけっこう自分が好きなようだ。

* * * * *

自分でさえが、自らを批評しがちである。
能力や容姿などについて、専ら欠けている部分に注目して、あーだこーだ、ああなりたいこうしたいと、願望を抱く。
自分が出来ていることについては、こき使って当たり前とばかりに、労いもしない。

私達は「根本的に自分のことを好いている」。
自分がとても嫌いだと思っていた頃さえ、思い返せばそう変わらない。
自分に期待し、応援しようと思っていないならば「嫌いだ」などとわざわざ思いはしない。
好きでもない自分に対し落胆しはしない。

もし何かで傷つき、自分を嫌いだと思いそうになったら、そんな苦境に立ち向かっている自分はエラいと思うようにしたい。
嫌うどころか、「頑張っている」と褒めたい。

私達は、常に自分を応援しているのだ。
その心を生かす。
逆らわない。
盲目的な溺愛はしなくてよいが、応援はどんどんしたい。




2017年6月23日

働く場に求めるもの


会社に、パフォーマンスの高さに極端に高い関心を持っている人間がいる。
それ以外に目を向けない、といった感じだろうか。
偉い立場の人だ。自らもその能力の高さで出世し、そしてそれ故、能力の高さというものが人間の主要な価値だと思っているように見える。
仕事において業務能力は不可欠だ。しかしその有無についてでしか人間を語れないなら、それには違和感を覚える。

会社の同僚とは、縁あって同じ場に属することになった間柄である。
絆だとか仲間だとか言う気は無いが、稀な縁であることは確かだ。
そういう他人を「デキナイからあいつは今一つだ」なんてことばかり言っているより、出来ないことが出来るようになる、正しく学べる、そういう「環境」を全員が目指していることのほうが遥かに価値あることだと思う。
そういう体制の上で、できるヤツはできるだろうしできないヤツはどうしてもできないだろう。そこへの評価はあって然るべきだ。
問題は方向性の話。「今日も得るものがあったな」と思える会社になっているかということだ。
人を見て学びたいと思う。感謝したいと思う。
私が偉い立場の人間なら、そういう環境・体制づくりを目指している人間を高く評価する。

「能力や実績」と「成長などの過程」ではどちらが上か、については、後者が上でそれを最大に生かして実績を向上させていくのがが正しいと思う。

「仕事なんて、所詮カネを稼ぐための手段」と言っていられる時代ではなくなっていると思う。
そのように割り切られる人は恵まれているのだ。
仕事を終えて会社を出る。そこに豊かな世界が待っている人はどのくらいいるだろう。
豊かな家庭、豊かな人間関係、豊かな趣味。
世の中の個人主義化はどんどん進み、下手に人と関われない社会になっている。
だから一人でいるという選択は、一時は快適かもしれないが、その快適さを長期間維持できるのは実のところ「恵まれた基盤」を保持する者に限られる。

何だかんだ言って、仕事に関わる時間は長い。
いかにその時間を納得のいくものにするかについて、真剣に考える必要性はますます高まり続けている。


2017年6月16日

最強の瞑想法


「最強の〇〇」とかありがちな本のタイトルのようになってしまったが、瞑想愛好家としての私の見解を述べさせてもらうと

ネット、スマホと縁を切ること

が最強の瞑想法だ。
実行すれば、生活の瞑想的・マインドフル度合いが間違いなく劇的に向上するだろう。
と、私もネット上で述べているわけだけれども。。。

ネット・スマホは心の健康上とにかく有害だ。

たとえば世の中の全員が真剣に瞑想の修行をするなど、一丸となって心の健全さ・豊かさを追求する状態になっても、ネット・スマホが残っている限りほとんどの努力は台無しになり続けるだろう。


2017年6月9日

RIGAOS スタイリングワックス


いわゆる整髪料の話だが、
Rigaos StylingWax という商品しか合わない。

自分が勝手にやりたい髪型に合うというだけ。
他の商品に非があるわけではないだろう。

でも私にとって、ないと少し困るもの。
なのにあまり売っていない。
とくに高級でもないのに。
うーむ。


2017年5月26日

全身体操 


瞑想の効用をなるべく小さい労力で実現する。
その方法を、少しずつだがずっと考えている。

最近うすうす「体の動かせる部分すべての小さな体操」だけでいいのでは、とも思い始めている。

* * * * *

「体の、動かせる部分すべての小刻みな運動」…
例えば頭部だけでいえば、

眉毛を上げ下げできる、
まぶたは開け閉め、
眼球はタテ・ヨコ・回す、という風に動かせる、
鼻は鼻孔の開け閉め、
口の開け閉め、アゴの左右の運動、
舌を出したり引っ込めたり、横に動かしたり。
首は倒したり、回したり、振ったり。
眉間、鼻の頭?表情筋全体を動かす。

といった具合に、「動かせる箇所」をぜんぶ、小さく動かす。

力むのは良くないので、「大きく」とか「速く」とかを意識しない。

関節、筋肉、いろいろ全部やるのはもちろんかなりの手間だが、一番近道な気がする。




2017年5月20日

Phantom


人間には「やりたいこと」なんてない。

責務に囲まれなければ真っ直ぐに立てず、

娯楽に引っ張られねば前へ進めない。


2017年5月12日

今日の音楽:Tahiti 80 『Fosbury』


車でよく音楽を聴く。

今日は
Tahiti 80 『Fosbury』
  (2005年)

「好き」なアルバムや「思い入れがある」アルバムが、「長年聴ける」アルバムとは限らない。
この作品は、思い入れはさほどでないが長年好んで聴いている。

重くなく、軽すぎず。
ほどよく洒落た良盤だ。











2017年4月21日

最大の理解者


自分が本当に欲しいものをプレゼントしてくれるのは

自分である。

他の人には分からない。



2017年4月14日

当たり前すぎること


あらゆる物事に、大きくかつ複雑に「偶然」が介在している。
明確に比較できるものは一つとして無い。

同じゴールに到った者同士でも、スタートは異なる。
当然より遠い所・低い所からスタートした方がエライ。
しかし誰がどこから歩いてきたか知りようがないし、歩き方にも天性のセンスが介在する。
すなわち比べる場も術もないのだ。

しかしそれでも、否、だからこそ人は何かに向かって努力すべきだ。
その方が、価値ある経験ができるから。
そうすることで人生の醍醐味を味わえるからである。

知るべきは「人を見下すのは本来おかしい」ことと「人に嫉妬する必要はない」ことの2点。
見下しも嫉妬も、それらをバネとして使いたい人が好んで使っているだけの活力剤だ。
とくに内容的に適正なものではない。


ところでだが、一般的に上記のような思考はタブーだ。
タブーと言うか、自他の双方から見て甘えのように感じられがちで、あまり使いどころがない。
しかし、「病人になったらとるべき」思考は、案外そのようなものの中に多いとしばしば感じる。

「立ち位置」を定める能力がフッ飛ぶのが「心の病」で、それに陥ると本当にいろいろな事を一から考えさせられる。
これまで当たり前すぎて気に留めていなかったこと、何度もきいて知っているつもりだったこと、そういう中から改めて大切さに気付くことが多く、あらためて座右の銘になったりもする。

それほど世の中が、そこで生きる者達に色んなことをすっ飛ばして前進することを強いている世界であることの表れかもしれない。



2017年4月7日

仕事をラフに


うつ病的な人は、仕事の業務を「軽視」すべきだ。
業務に対する愛が欠如してよい。

それを不誠実に感じても、心配いらない。
病的な人が気遣いをずいぶん減らしたとしても、一般人よりはそれでも多い。

非礼をして回れというのではない。
心の中の感触の話である。



2017年3月24日

ラッションドローイングペン 寺西化学工業


白いボディの筆記具はつい買ってしまう。
ドローイングペン。通称ミリペンか。
0.2と0.3。

書き味も素晴らしいです。


2017年3月17日

品ある配慮


「格差」に注目するなと以前書いたが、「差別用語」にも似たことを思う。

過剰な気遣いのせいで、かえって強調されることもある。
「いたわり」と称する行為が相手を見下しているような場合もある。

直面している当人達は案外強いものかもしれない。
それを背負って日々を生き抜いている。

自己満足的な配慮コトバが飛び交うのは、社会的にも品が疑われる。
それを良しとするような感性の低い世の中になって欲しくない。




2017年3月3日

身体の開発が頭に効く


腕をうまく扱うには、腕を鍛える?……NO、全身を鍛える。
足腰をうまく扱うには、足腰を鍛える?……NO、全身を鍛える。


「全身を」活性化することで「頭」がうまく働く。
「頭」がうまく働けば、指令がうまく出せて身体のどの部分もセンス良く扱える。

「部分」はつねに「全体における一部」として動く。
全体の健全性がなければ、部分の最適なコントロールは出来ない。


全身を鍛えると言っても、全身の筋トレは必要ない。
「まんべんなく使う」だけでいい。
力みすぎれば歪んでバランスを見失うので、軽く動かすくらいがベスト。
いろんな動作をしてみよう。



2017年2月24日

メモ 自分の身体を感じやすくする方法


■身体を動かす
 → ゆする、軽く回転させる、軽いストレッチ、スローモーション

■身体の停止状態をキープ
 → ストップモーション

■身体に触る
 →筋肉や筋などを自分で揉む、軽くたたく、体表をさする

■身体を温める
 → 温風、風呂

■身体に感謝する
 → 体の各部位に感謝の意識を向ける


2017年2月10日

親を許す


心を病む者が親との関係に問題を抱えていることはよくある。
そういうケースでは、「親を許す」ことで自由を手に入れていくというのが王道だ。

「許す」といっても、好きになって仲良くせよとか感謝せよとか、そういうことではない。
親も言わば「非力なひとりの人間」に過ぎないという、当たり前のことに目を向けよということである。
自らを縛るような「許すまじ」の感情は手放せということだ。
相手のためにでなく、自分のために。

ただしそれは場合によっては困難な作業になりうる。
考えが進み期が熟すまで、進めようと思っても進められるものではないかもしれない。

親という存在は特殊・特別だ。

子は、親というものを限界まで好きでいようとするものだ。
親を疑いながら育ててもらうというのは、本能的に不可能だろう。
子は親を信用するのだ。

したがってそれに反する事実に向き合わねばならない時、例えば親に「騙された」「裏切られた」「攻撃された」のだと認めねばならない時、その衝撃と喪失感は激しいものとなる。
そしてその激しさは、そのまま親へ向けられる「怒り」の激しさへ繋がっていく。

そのようなことが自分に起こった時のことを思い返す。
私は全て「なかったこと」であって欲しいと思っていたように思う。
強く優しい親に帰ってきて欲しかった。
「悪かった。これから変わるよう頑張るから。」そう親が言ってくれることを望んでいたように思う。
その望みは叶わなかった。
しかしそれは彼らが邪悪だからではなく、「とにかく仕方が無かった」からだと思えるようになったのは随分あとでのことで、当時の私は期待をどこまでも裏切る親に対し、存在をかけて敵意を向けるしか術を持たなかった。
親が与えてくれた「真っ当なこと」の方に目を向ける余裕など有りはしなかった。


自立

一時は心底から敵視した家庭というものに対し、今の私は負の感情を抱いていない。
しかしどうやって敵意を乗り越えたか、それを一言で述べるのは難しい。

一つ言えることは、私がもう少し社会的に成功し、多くのものを手に入れていたら、親に対する敵意を今なお消せていなかったような気がしている。少なくとも随分とあとになったことだろう。
冷静になれば、親など関係ない不遇が世界には溢れている。
その世の中の「ままならなさ」については、何をどう述べてよいか分からないくらいだ。
自分はスーパーマンでないし、王族でもないし、楽園にも住んでいない。
また運というものに必然性もない。
どう考えたところで、それらの事実が揺らぐことはない。

ともかく私の親が「望ましい」ことを果たせなかったのは事実として、それを落ち度として彼らに全責任を押し付けるのは、世の中の成り立ちから言っても少し違うように感じるようになった。
考え続けた末に私にもたらされた結果は、そのような形のものだった。

諦めの先

「強い絆で結ばれた」という表現がピッタリの、とても仲のよい親子を見ることがある。
誰もがそのようになれるわけではないだろうし、なる必要もないだろう。
絶対的な信頼感、それは貴重で掛けがえないものだろう。
しかしある種の諦めを知った、つまり現実を受け入れた後に見えてくる、地に足のついた関係もまたよいものだと思う。
何を与え合うかだけで単純に判断されない、「皆がその人なりに一生懸命」という認識の上に築かれる、尊重と思いやりがある世界。
その世界は誰にでも常に残されているものだと信じている。


2017年2月3日

格差について騒がない


騒ごうとどうしようと世界は元から格差ばかりだ。

格差格差と騒ぐから「低いと不幸なんだ、カッコ悪いんだ」という空気が助長される。

大して物を持たなくたって、楽しく明るく生きている人々はいる。
にもかかわらず、その事実や意味について考えることをやめさせようとするような論調が世間に渦巻いている。
傷つく必要のない人までが傷つき、恐れ、わが身ばかり案ずる風潮が加速している。


「困っている人を見たら助けよう」、だけでいいはずだ。
それが「格好いい」人だ。
また、助けてもらって素直に感謝できる人も「格好いい」人。
その2つだけ知っていればいいんじゃないか。

「何を持っているか」など、大部分は成りゆきのが結果にすぎないことだ。
然るに格好良さには関係ないこと。
その多寡に振り回されるというのは、愚かなことだ。


2017年1月27日

2017年 ダイアリー


今年のダイアリーはシステム手帳でいくことにして、10年近く前に買ったbindex「クリア」の黒のバインダーを引っぱり出した。

いまさらのシステム手帳?いまさらなのか、一巡してまた支持されてるのか私には分からない。
ブームは過去の話、クラウド以降の「紙の手帳を持つのはスマートじゃない」空気にも押され、今やスケジュール管理の道具としてはへビーすぎる代物なのかもしれない。
しかし私はエリートビジネスマンでも何でもないので、手帳ひとつの重さなどにあくせくせず、ゆったりいきたい構えである。

 以前はリングがジャマに感じていたが、面倒をみれば当然普通に書けるし、むしろバタバタしないで丁寧に書くくらいが今の私の気分だ。

好きなようにカステムできる点はやはり良いと思う。
多少ものを挟んでもパンパンにならないので佇まいが変わらないところも好ましいと感じる。






2017年1月20日

深呼吸生活


うつ病などの改善に「効果があること」というのはたくさんある。
有名なものからそうでないものまで、じつに多様だ。
多くの患者に効果がみられたという方法なら試す価値はあるだろうし、また突飛なものや少数だけに効果があったというものでも、その改善が確かであったのなら何かしらの的をとらえた部分があったに違いない。

しかしその全てを試すことはムリだろう。
時間や労力に限界があるし、それぞれ好みのようなものもある。
「効果がありそう」で、かつ「やる気がする」ものを縁に導かれつつ試していくしかない。
それでいいと思う。
むやみに凝るより「なり行き」にまかせた方が良いことも多い。


ただしどの道をいく場合においても並行すべき、「万能で最強な習慣」というものがある。
大げさに言ったが、それは「深呼吸」だ。
腹式呼吸と言ってもいいが、敢えてカンタンに深呼吸と言っておく。

それもたまにでなく「一日中やる」くらいのイメージで行う。
つまり、治療のための〇〇をしている時間だろうがそれを終えて休憩する時間だろうが買い物に出かける時間だろうが、ずっと深呼吸で過ごす。
もともと朝から晩まで呼吸はしているわけだから、それらをすべて「深く」やれといってもそれほど無理な注文にはならないだろう。

ではやるぞ!と思って始めても、きっと気づけば忘れてしまう。
問題ない。そういうものだ。
そしたらまたその時点から始めれる。
少しでも多くできればそれでよい。

この深呼吸を生活のベースにおけば、あらゆる「治療のための〇〇法」が最大の効果を発揮するはずである。




2017年1月13日

アル・ケッチャーノ


奥田政行シェフのアル・ケッチャーノで初めてのディナー。

「大したことない」つったの誰だ!

素晴らしいじゃないか!

やはり自分で行ってみないとだめだな。