2017年2月10日

親を許す


心を病む者が親との関係に問題を抱えていることはよくある。
そういうケースでは、「親を許す」ことで自由を手に入れていくというのが王道だ。

「許す」といっても、好きになって仲良くせよとか感謝せよとか、そういうことではない。
親も言わば「非力なひとりの人間」に過ぎないという、当たり前のことに目を向けよということである。
自らを縛るような「許すまじ」の感情は手放せということだ。
相手のためにでなく、自分のために。

ただしそれは場合によっては困難な作業になりうる。
考えが進み期が熟すまで、進めようと思っても進められるものではないかもしれない。

親という存在は特殊・特別だ。

子は、親というものを限界まで好きでいようとするものだ。
親を疑いながら育ててもらうというのは、本能的に不可能だろう。
子は親を信用するのだ。

したがってそれに反する事実に向き合わねばならない時、例えば親に「騙された」「裏切られた」「攻撃された」のだと認めねばならない時、その衝撃と喪失感は激しいものとなる。
そしてその激しさは、そのまま親へ向けられる「怒り」の激しさへ繋がっていく。

そのようなことが自分に起こった時のことを思い返す。
私は全て「なかったこと」であって欲しいと思っていたように思う。
強く優しい親に帰ってきて欲しかった。
「悪かった。これから変わるよう頑張るから。」そう親が言ってくれることを望んでいたように思う。
その望みは叶わなかった。
しかしそれは彼らが邪悪だからではなく、「とにかく仕方が無かった」からだと思えるようになったのは随分あとでのことで、当時の私は期待をどこまでも裏切る親に対し、存在をかけて敵意を向けるしか術を持たなかった。
親が与えてくれた「真っ当なこと」の方に目を向ける余裕など有りはしなかった。


自立

一時は心底から敵視した家庭というものに対し、今の私は負の感情を抱いていない。
しかしどうやって敵意を乗り越えたか、それを一言で述べるのは難しい。

一つ言えることは、私がもう少し社会的に成功し、多くのものを手に入れていたら、親に対する敵意を今なお消せていなかったような気がしている。少なくとも随分とあとになったことだろう。
冷静になれば、親など関係ない不遇が世界には溢れている。
その世の中の「ままならなさ」については、何をどう述べてよいか分からないくらいだ。
自分はスーパーマンでないし、王族でもないし、楽園にも住んでいない。
また運というものに必然性もない。
どう考えたところで、それらの事実が揺らぐことはない。

ともかく私の親が「望ましい」ことを果たせなかったのは事実として、それを落ち度として彼らに全責任を押し付けるのは、世の中の成り立ちから言っても少し違うように感じるようになった。
考え続けた末に私にもたらされた結果は、そのような形のものだった。

諦めの先

「強い絆で結ばれた」という表現がピッタリの、とても仲のよい親子を見ることがある。
誰もがそのようになれるわけではないだろうし、なる必要もないだろう。
絶対的な信頼感、それは貴重で掛けがえないものだろう。
しかしある種の諦めを知った、つまり現実を受け入れた後に見えてくる、地に足のついた関係もまたよいものだと思う。
何を与え合うかだけで単純に判断されない、「皆がその人なりに一生懸命」という認識の上に築かれる、尊重と思いやりがある世界。
その世界は誰にでも常に残されているものだと信じている。


0 件のコメント:

コメントを投稿