2015年10月21日

体がメインの人になりたい。


心は、脳よりも身体のほうに多く入っている。

そのように捉えると心の健康に良い。


私は日頃、自分が身体主体の存在であると意識するよう努めている。
少し妙だが、首から上は無くてもよい、くらいの感覚だ。

首から上の仕事、すなわち見る・聞く・話す・考える、をなるべく廃止する。
そして首から下の、無理のない姿勢やバランスなどを重視する。

経験上、そのほうが精神の健康から感性・知性までもアップする。


ストレスの本質は、頭の使い過ぎそのものではない。
頭の使い過ぎによる、身体感覚に対する無頓着である。




2015年10月20日

直視する。積まれたそれは、下せるものであることを知る。


私の心の「自由度」は、年を重ねるにつれて低下した。
幼いころは比較的マシだったのだ。
まったく問題なかったとは言えないかもしれないが、幼少時代の私はけっこう健康で、生活の色彩を楽しむだけの心の弾力は備えていたように思う。

また、病的な傾向が強まって以降も、「マシな時期」というのは存在したように思う。

以上から思うのは、心の病気は後天的に形成される部分も大きいということだ。
そしてその部分はかなり曖昧なものだろうとも思う。
宿命として明確な形で「始めから終わりまで」決まっているものではない。
始めは同じ病気の種も、その後の環境が異なればまったく違う経過をたどるだろう。

よく考えてみれば、それほど不確かなものならば修正することも案外容易いのでないか、という気もしてくる。

病気がどういうものなのか、しっかり見なければならない。
私は「心を病む者」らしい特徴をもつ人生を幼少期から歩み出したと思われるが、そんな自分を欠陥品を見るような目で眺めてきた。
そのように自らを憐れむことによって守られるものがあり、そうする必要があったことも理解している。
しかし、そのように悲劇に酔ってきたせいで、大切なものから目を背けてきたという風にも思う。


期が熟し一息ついたら、人生に起こったことの確率について嘆くのをやめ、起こっていることを正しく見極めたい。
すると、きっとやれることが見つかるはずである。
そこから始めるのだ。自分のために。



2015年10月14日

ゼロ以上へ


うつ病になってからは、療養以外はみな「寄り道」になってしまう。

そして「寄り道」では、体調はほぼ悪化する。
0には留まれず、マイナスに行く。

きちんと療養をして初めて、0に留まれるかプラスに行けるかだ。




2015年10月10日

身体感覚で満たされた意識


うつ病を管理するために瞑想している。

どんな行動の最中も「自分の身体を感じる」ようにしておくといい。
重心を感じたり、手首の向きを確認したり、腕のどちら側が伸びているかみたり……

生活において頭を高度に使うことは、実のところ短時間だ。
重要で複雑な決断をいくつもおこなったりはしない。
ほとんどの時間はなんとなく過ごしている。

物事の結果の多くは、結局「動作」によってもたらされている。
足を使って移動し、そこに場を構える。
そこで手を用いて処理をする。

つまりそのため、「身体を感じること」に意識を割いても、さほど困ることはない。

逆に頭ばかり使って身体を意識することが少ない人ほど、ストレスに取り憑かれやすい。

理想像は「いつも身体を感じている人」だ。



2015年10月5日

合理的


うつ病になる人は、完璧主義であることが多いそうだ。

私も完璧主義とまでは言えないが、合理的であることにはとらわれてきた方だと思う。
合理的でないと頭が悪いと思われるような気がしていた。

そもそも合理的とは、それぞれの場での「最も効果的なあり方」のことである。
すなわち最も「使える」、「役に立つ」ことが、合理的だ。
しかし私はずっと、形として最小に整い、言い負けることのない、合理的「風」に見せるだけの演出めいたものを求めてきた気がする。
その場に「本当に必要なもの」を直視しなかったのだ。


そういった習慣は、うつな者にはとりわけ良くない。

うつ病になったら、何よりも「できること」をやらねばならない。
理論としていかに強固でも「やれない」ならば意味がないし、「やれなかった」だけで終わるならまだしも、うつ病では小さな挫折感でさえ容易く症状の悪化要因になる。

自分にも、そして回りの環境にも、必ず「クセ」というものがある。
「クセ」は「限界」と言い換えてもいい。
単純な正論ではない、実行可能で現実的な1手を打つこと着手しなければならない。

「正しさ」にひた走りたい気持ちはよく分かる。
しかし、その衝動をひとまず傍らに置き、最大限穏やかに、静かにする。
慣れ親しんだこと、更にその中の、「やれること」に着手する。
うつの療養においては、そのように「小さく手を打つ」する姿勢が最も重要だ。