2015年10月20日

直視する。積まれたそれは、下せるものであることを知る。


私の心の「自由度」は、年を重ねるにつれて低下した。
幼いころは比較的マシだったのだ。
まったく問題なかったとは言えないかもしれないが、幼少時代の私はけっこう健康で、生活の色彩を楽しむだけの心の弾力は備えていたように思う。

また、病的な傾向が強まって以降も、「マシな時期」というのは存在したように思う。

以上から思うのは、心の病気は後天的に形成される部分も大きいということだ。
そしてその部分はかなり曖昧なものだろうとも思う。
宿命として明確な形で「始めから終わりまで」決まっているものではない。
始めは同じ病気の種も、その後の環境が異なればまったく違う経過をたどるだろう。

よく考えてみれば、それほど不確かなものならば修正することも案外容易いのでないか、という気もしてくる。

病気がどういうものなのか、しっかり見なければならない。
私は「心を病む者」らしい特徴をもつ人生を幼少期から歩み出したと思われるが、そんな自分を欠陥品を見るような目で眺めてきた。
そのように自らを憐れむことによって守られるものがあり、そうする必要があったことも理解している。
しかし、そのように悲劇に酔ってきたせいで、大切なものから目を背けてきたという風にも思う。


期が熟し一息ついたら、人生に起こったことの確率について嘆くのをやめ、起こっていることを正しく見極めたい。
すると、きっとやれることが見つかるはずである。
そこから始めるのだ。自分のために。



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