2018年11月1日

親に求めたもの


親に対して、長いあいだ様々なネガティブな評価をしてきて
その認識に従った行動をとったりもしたが

結局、何に怒って何を訴えたかったのかを一言でいえば

「なぜ迷いなく好きでいさせてくれなかったのか」だったと今思う。


2018年10月19日

一致


どんなこと、些細なことでも、

何かを「成し遂げる」瞬間の心の感触は、他者を踏みにじる瞬間のそれと同一であると気づいた。

われわれの1から10までが「生き残るため」であるからだろう。


2018年10月17日

趣味


それなりに趣味というものがあった。

美しいものが好きだったと思う。
そこそこに自分なりに探求し、楽しみもした。

美しいものを発見したり
「美とは何か」についての考えが一歩進んだ喜びを密かに噛みしめた夜、

私はそのことを誰かに教えたかった。



2018年9月25日

急がずに


急がずに急ぐ

休まずに休む

止まりながら動くような、

不断の均質。




2018年8月6日

美の終着地


「年齢よりも若く見える」が好きでない。

おっさんというべき年齢ならば 見たからにおっさんであればいい。

明らかに若ぶったのは勿論、この人いくつなんだろう?と問いを抱かせるのもナシだ。
訊けば雰囲気どおりの年齢、ついでに言えば周りに馴染んで目立たない。
そのような、目に入ってこないような障りの無さこそ「品」であり「美」だ。

ノイズを発しない。
ノイズは、余計なものを捨てないために生じる。

見え方だけの問題ではない。
言動などについても同様だ。


2018年7月10日

自分にできること


人は「能力」というものをほとんど持たない。
「環境」と「本能」によって作られた「スタイル」を有するだけである。

人にはそれぞれ「能力」があり、それを拡大することで物事や人生を切り開いていく、そうかつての私は思っていた。
しかし多少長く生きてつくづく思うのは、人には「スタイル(=我流)」があるだけだということ。

なるべく広い視野を持つよう努めた時も、最大限に慎重になろうとした時も、
最終的な判断を下したのは「我流のスタイル」だ。
人はそれしか使えない。

スタイル形成に大きな影響を与えたのはやはり「環境」である。
たまたま放り込まれた環境によって、運命的支配を受けていく。
そのそれぞれの環境で生き延びるため(=本能)に身につけていく処世術の集積こそが
「その人」を形作っていく。

みんなのヒーローにはなれない。そんなものは居ない。
それを誰もがどこかで悟り、言わば「誰かのヒーロー」を目指すことを新たな目標にしていく。

私は私になるだけである。
私がすることは、どんなに小さなことも「私にしかできないこと」で
私の全ての言動には私の人生の集約されている。
人はそれぞれが尊く、レベルの差などない。

「能力」についての幻想が解け、それと同時に
人間は丸ごと尊いということが分かった。




2018年6月29日

「ありがとう」の前に「うれしいな」



人に何かをしてもらった時、礼を言うべき状況だから言うのではない。
嬉しいから、自然に感謝の言葉に出る。

ありがたいと「思う」前に、うれしいと「感じる」。
「とるべき行動」を考える前に、自分がどう感じているか確かめる。


どんな時も、自分の心の声にしっかり寄り添いたい。



2018年5月18日

無題


世界中さがしても、完璧な人間はいない。

むろん私の回りにも。

完璧でない私が、完璧でない人達から少しずつ手を差し出してもらい、力を借りてきた。

実のところ感謝しかない。

今日また恰好つけずに頑張りたい。



2018年5月16日

野山


なにか「良い感じのもの」を探して、毎日、一日じゅう野山を駆け回った 

しかし町へは一度も下りなかった。


2018年5月9日

拾い上げる言葉。


目の前にぶら下げてもらったニンジンを追いかけ、手に入れたかどうかについての物語。
そこからは心を動かされない。

自らの凡庸さを受け入れただけ、止まりの物語でも同様だろう。

踏み抜いてはいけない薄氷を踏み抜いた者、
その言葉の中にしか聞くべきものを見い出せなくなってしまった気がする。


2018年4月19日

通り道


うつ病になると「何1つまともに出来ない」と思いがちだが、それは誤解だ。
正しくは「何1つそれまでと同じスピードで出来ない」である。

試せば分かるが、いくら時間をかけてもいいことにして行動すれば、たどたどしいながらも健康時と「同じルート」で、「同じレベルの納得」を重ねながら判断・行動ができる。
以前と同じスピードでやろうと思わなければ、質的に同じことができるのだ。


うつで凹むのは、自分の行動における「遅さ」と「ミス」との認識だ。
この際に、「これまでの自分」と比べて低下しただけのものを「全壊」したかのように捉えたら、それは正しくなく、悲観が過ぎる。

たしかに「全壊」ではないにしても、動揺は小さくないだろう。
しかし動揺により更に「ミス」をしやすくなる悪循環こそが、うつの悲劇のだ。


前述した「ゆっくり確認しながらやれば、まずまずの感触でミスも少なくやれる」ということを忘れてはいけない。
「遅くても良いからちゃんとやるモード」で普通の生活をすることが、うつ脱却の最短コースだ。


正常に残った回路を用いてじっくり行動すると、うつの悪化要因である「身体の神経の誤用」が最小で済む。
これが、うつ対応の基本にしてほぼ全てである。


ただし言うまでもなく、そのモードの導入には犠牲も伴う。
贅沢な時間の使い方をすることにより、外部との連携にはトラブルが生じ得よう。
しかし病の長期化を防くためには止むを得ない、否、すすんで払うべき犠牲なのである。
基本的には開き直るしかない。
まわりへの感謝を心の中に一筋保てていれば十分だ。




2018年4月17日

問題ない範囲


「自分が好きなようにする」という言葉から直ちに「わがまま」を連想するようなら潔癖すぎだ。

好きなようにやってもまわりに迷惑がかかるとは限らない。
「問題がない範囲」というものは当たり前に存在している。
その範囲内は自由でいいのだ。
問題が生じて初めて「それはわがままだ」ということになる。

遠慮しすぎも、自他を無用に窮屈にするのだ。


2018年4月9日

静かにやり切る


心の健康を獲得するには「思考を中断・逆走させない」こと。

「もっと良い方法はないかな?」
「さっきのアレは大丈夫かな?」
「来週のあれはどうしよう?」

などをやらない方がいいということ。

そのためには「ものごとを静かにやり切る」訓練をすると良い。
「やり切る」ことは大事。さらに「力んで逃げるように」やらないことも大切だ。

ミスってもいいので、急がずに最後まで。
ちょっとミスをする損失は、迷いがちな習慣のままでいることの損失から見ればはるかに小さい。

「静かにやり切る」を繰り返して、他人の解釈を絶えずかえりみる習慣から距離を置いていこう。


2018年4月2日

全身を使うと楽になる



荷物を右手だけで持つのに比べ、両手で持てば負担は左右半分ずつになる。

そのまま姿勢をまっすぐにして前後左右への傾きを無くすと、つま先・肩・腰などへの負担も減る。

そのように、重心や身体の構造を考えて負担を散らしてなるべく均等にしていく。

そんな心掛けは、日常生活を「瞑想的」に行なうことと言える。

掃除でも歩く時でも、いつでも「全身で行う」ようイメージするのがポイントだ。

2018年3月26日

出場競技


自分がやるべきことをはっきりさせ、それ以外のことは「降りる」。

自分は何の種目に出場してるのか。

たとえば仕事に関して、

「とにかく速くやる競争」に参加したのか、

「とにかくキレイにやる競争」に参加したのか、

「とにかく関わる他者をやりやすくさせる競争」に参加したのか、

「とにかく自分の心に優しくおこなう競争」に参加したのか、

種目がはっきり決まったら、その他の評価が低くとも「俺はその種目には参加してない」。

自分が何の選手か、明確に自覚したい。


2018年2月22日

頭は身体で回してる


運動しないとバカになるように思う。
 
年を取ってくると特に。


身体の神経回路が非活性化すると、知的に老化する。

頭自体の老化ではないと感じる。




2018年2月13日

好きなアスリート


好きなスポーツ選手。

昔から変わらない。

「貴乃花光司」。

天才で純粋でサイコー。

凡人の安いモノサシで評価・断罪されている。

あの小細工のなさを見よ。

がんばれ!負けるな!

ちょっと不器用すぎるけど!


2018年1月27日

「王道」「スタンダード」について 2


「王道」や「スタンダード」に徹して小手先に逃げないのは、骨のある態度だ。

「個性」や「その人らしさ」というものが結局は最も尊く輝かしい。それは確かだと思う。
しかし「自己満足に走らず王道に徹する」姿勢、苦節の末に獲得されたものである場合、それには大いなる称賛を送りたい。
世の中で生きていくことに「腹を括った」証だと思うからだ。
自己流を捨てることは、強さや覚悟がなければ出来ないこともあるだろう。

それに付随して思ったのは、王道に徹することができるのは、「人の世を信じることができる人」だろうということ。
他人が積み上げたもの、他人が見つけた答えなどの「自分以外の歩み」を肯定することができないと、人の世が生み出した王道に身を委ねることなど出来ない。

人の助言を参考にできない人は、人間不信の要素があるのかもしれない。
そう思ったのは、それが正に私のことであるからだった。



2018年1月16日

ゆったり雑に


心を病んでいる時、「几帳面」や「凝る」という性質は基本的にご法度だ。
そういうスタイルでやってきた人は自分の心を守るために見直すべきだ。

極力根詰めない。物事は「雑」にやっていい。
私もそのように気を付けているが、そこで気づくのは、雑にやっていると「スピードを上げようとする力」がじわじわ働いてくるということだ。

雑にやることで処理が早く終わるのが嬉しくなってくるのか、はたまた雑になってる状態が不快でストレスを発散したくなるのか、ともかくしだいに気持ちが急いでくる。
力まないために「少々雑でいいんだ」としているハズが、結局バタバタ急いでいたら効果半減だ。

そうならないためには「ゆったり、雑に」と心掛けると良いようだ。
「超天然」体質の人を観察すると細部にこだわらず大まかにゆっくりやっているが、アレである。
ゆったり、をまず崩してはいけない。
ゆったりをキープした上で、その結果として仕事などが大雑把になる、の順序でなければならない。



2018年1月9日

クラシック


クラシックという言葉が好きだ。
「class」に合っている、「class」を体現しているということ。
クラシカル「古典」のことではない。

その人にはその人のクラシックがある。
単に「分相応」ということよりも、些細なことも含めて「自分が最も自然でいられる」のが各々にとってのクラシックだと思う。

真似をしない。
無理をしない。
贋物をまとわない。
「そぶり」をしない。

それぞれがそれぞれのまま、堂々とする。
それが各自の品格につながる。
普遍的な気品というものだ。
上品ぶったら、演じたら、下品になる。

身の回りをよく理解し、自分ができることに熱心に取り組む。
そんなクラシックなマインドを大切にしたい。