2020年6月19日

奔流のなか


繊細すぎるであろう私が
健康な人々の自由でポジティブな思考・言動に抱いてきた印象は
一般人がサイコパスに感じるそれにおそらく近い「唐突」「脅威」である。

それほどまでに感じる隔たりが、いつも私を恐怖させた。
恐ろしいものが普通なものとして提示される日々の中、
私には自分が感じる恐怖の意味、あるいはその存在さえ、長い間曖昧だった。

まわりがいかに問題なく回っていようが
「自分が恐怖している」ということは紛れもない事実であり、
そしてとりわけ目を向けるべき事実であった。

自分の認識が世界の主流と共有されるという保障は全くない。
かつ、その共有されていないという事実がそう分かるよう示される保障もない。

世界のその保障のなさに対する徹底的な理解こそ
「人(私)には人(私)の"片づけるべき順序"がある」という重要事実に到達するための第一歩だった。