2015年12月9日

心の元気


最も追求すべきものは「心の元気」の管理法だ。

不運に見舞われた中でも
心が元気であれば「最大限にマシ(幸せ)」でいられるわけだ。


心を元気にしてくれる「瞑想」は、あらゆる者にとって大きな財産なのだ。




2015年12月4日

瞑想する人々


心が健康な人は、実は無意識に瞑想しながら日常を過ごしてる
病んでいる人はそうしていない

そういうこと。

瞑想はそういうもの。




2015年12月3日

冷たい飲み物


スタバのフラペチーノの冷たさ

これを瞑想で認識し(思い出し)た。

続けて飲むと口が冷たくて大変になるが、頑張って飲む、

その頑張りの感覚と、その時に考えていた事、姿勢、風景。
その「併存ぐあい」を体内で想い起こす。
そうやって体調を改善した。




2015年11月19日

眼鏡、ネクタイ


① ネクタイが首を圧迫
② 眼鏡のツルがコメカミを圧迫


瞑想によってこれらを認識して体調を改善させる。
上記2つは、他の諸々の力みと「併存」していて、
その「併存ぐあい」を体内で想い起こすと、体調が良くなる。


2015年11月18日

目の前への集中


心の健康を保つには、今やっていることに集中するとよい。
考えごとを並行させない ことである。

対象物を睨みつけたり、集中・集中とつぶやけと言っているのではない。
力んだ集中ではなく、自らの行為全体にむけたややゆるい集中になろうか。
行動の始めから終わりまでをあらかじめザックリ思い描き、それに沿って行動してみるといい。
イメージのキープだ。

雑念を割り込ませないための1つの工夫である。





2015年11月11日

今日の音楽:RHYE 『Woman』


運転中によく音楽を聴く。

今日は
RHYE 『Woman』。
  (2013/3/5)

カナダ人とデンマーク人。

男性ボーカル、中性的な声。

まろやか、ストレスなし。

永く聴けている。



2015年11月10日

心の動力


「思考や感情」は、じつは「肉体」の感覚を使って動かしている。

つまり「心」のエンジンは「肉体」だ。

精神の暴走 = 肉体の暴走 なのである。


2015年11月5日

うつ病における真の“療養"


うつ病における真の療養=

「自分の身体を感じながら」生活すること


上記がうつ病における休養の本質だ。

行動の最中に、身体にかかっている力などに注意してみる。

自分の体重が乗っている箇所/疲れている箇所/傾き・ひねり …etc



「寝る」「仕事を休む」などの一般的な療養も有効だ。というか最低限の準備だ。
その上で「身体を感じる日常」にしたい。
そこまでやって初めて十分な療養だ。
極論を言えば、外見上は休んでいなくてもマインドフルであれば療養になるのだ。


心が健康な人ほど、「疲れた―」「休みたい―」など自分の身体の声をよく聞いている。
つまり意外によく休憩するし、ムチャもしない。
感度が高く保たれているのだ。

疲れが折り重なった時ほど、「それを気にして生活できるか」とばかりに更に身体から意識を離す。
悪循環だ。


「無視された身体感覚」が引き起こした歪みを修復し、適正なバランスをとり戻さねばならない。
そのためには、無視された身体感覚を正面から「感じ直す」作業が必要になる。





2015年10月21日

体がメインの人になりたい。


心は、脳よりも身体のほうに多く入っている。

そのように捉えると心の健康に良い。


私は日頃、自分が身体主体の存在であると意識するよう努めている。
少し妙だが、首から上は無くてもよい、くらいの感覚だ。

首から上の仕事、すなわち見る・聞く・話す・考える、をなるべく廃止する。
そして首から下の、無理のない姿勢やバランスなどを重視する。

経験上、そのほうが精神の健康から感性・知性までもアップする。


ストレスの本質は、頭の使い過ぎそのものではない。
頭の使い過ぎによる、身体感覚に対する無頓着である。




2015年10月20日

直視する。積まれたそれは、下せるものであることを知る。


私の心の「自由度」は、年を重ねるにつれて低下した。
幼いころは比較的マシだったのだ。
まったく問題なかったとは言えないかもしれないが、幼少時代の私はけっこう健康で、生活の色彩を楽しむだけの心の弾力は備えていたように思う。

また、病的な傾向が強まって以降も、「マシな時期」というのは存在したように思う。

以上から思うのは、心の病気は後天的に形成される部分も大きいということだ。
そしてその部分はかなり曖昧なものだろうとも思う。
宿命として明確な形で「始めから終わりまで」決まっているものではない。
始めは同じ病気の種も、その後の環境が異なればまったく違う経過をたどるだろう。

よく考えてみれば、それほど不確かなものならば修正することも案外容易いのでないか、という気もしてくる。

病気がどういうものなのか、しっかり見なければならない。
私は「心を病む者」らしい特徴をもつ人生を幼少期から歩み出したと思われるが、そんな自分を欠陥品を見るような目で眺めてきた。
そのように自らを憐れむことによって守られるものがあり、そうする必要があったことも理解している。
しかし、そのように悲劇に酔ってきたせいで、大切なものから目を背けてきたという風にも思う。


期が熟し一息ついたら、人生に起こったことの確率について嘆くのをやめ、起こっていることを正しく見極めたい。
すると、きっとやれることが見つかるはずである。
そこから始めるのだ。自分のために。



2015年10月14日

ゼロ以上へ


うつ病になってからは、療養以外はみな「寄り道」になってしまう。

そして「寄り道」では、体調はほぼ悪化する。
0には留まれず、マイナスに行く。

きちんと療養をして初めて、0に留まれるかプラスに行けるかだ。




2015年10月10日

身体感覚で満たされた意識


うつ病を管理するために瞑想している。

どんな行動の最中も「自分の身体を感じる」ようにしておくといい。
重心を感じたり、手首の向きを確認したり、腕のどちら側が伸びているかみたり……

生活において頭を高度に使うことは、実のところ短時間だ。
重要で複雑な決断をいくつもおこなったりはしない。
ほとんどの時間はなんとなく過ごしている。

物事の結果の多くは、結局「動作」によってもたらされている。
足を使って移動し、そこに場を構える。
そこで手を用いて処理をする。

つまりそのため、「身体を感じること」に意識を割いても、さほど困ることはない。

逆に頭ばかり使って身体を意識することが少ない人ほど、ストレスに取り憑かれやすい。

理想像は「いつも身体を感じている人」だ。



2015年10月5日

合理的


うつ病になる人は、完璧主義であることが多いそうだ。

私も完璧主義とまでは言えないが、合理的であることにはとらわれてきた方だと思う。
合理的でないと頭が悪いと思われるような気がしていた。

そもそも合理的とは、それぞれの場での「最も効果的なあり方」のことである。
すなわち最も「使える」、「役に立つ」ことが、合理的だ。
しかし私はずっと、形として最小に整い、言い負けることのない、合理的「風」に見せるだけの演出めいたものを求めてきた気がする。
その場に「本当に必要なもの」を直視しなかったのだ。


そういった習慣は、うつな者にはとりわけ良くない。

うつ病になったら、何よりも「できること」をやらねばならない。
理論としていかに強固でも「やれない」ならば意味がないし、「やれなかった」だけで終わるならまだしも、うつ病では小さな挫折感でさえ容易く症状の悪化要因になる。

自分にも、そして回りの環境にも、必ず「クセ」というものがある。
「クセ」は「限界」と言い換えてもいい。
単純な正論ではない、実行可能で現実的な1手を打つこと着手しなければならない。

「正しさ」にひた走りたい気持ちはよく分かる。
しかし、その衝動をひとまず傍らに置き、最大限穏やかに、静かにする。
慣れ親しんだこと、更にその中の、「やれること」に着手する。
うつの療養においては、そのように「小さく手を打つ」する姿勢が最も重要だ。






2015年9月29日

インターネットのいやな点 2


インターネットの好きでない点の2つ目。
それは、ストレス発散の材料に溢れすぎていること。

ちょっと気になった事をすぐに調べられるし、何かムシャクシャした時に何かの刺激に触れてスッキリできる。
これらはガス抜きできるメリットがある一方で、モヤモヤを放置できない、ストレス耐性の低い体質の形成を促す。
そしてまた、そのせいで発散させてくれるものへの依存が加速していく。

こういう現象が全社会的に進めば、発散対象になりうる類のものが支持を集めていくだろう。
つまり強い刺激をもつものがもてはやされ、おかしなものが幅を利かせ、まっとうなものが埋もれていく危険を孕んでいる。

怖い世の中になっていく気がする。





2015年9月17日

インターネットのいやな点 1


インターネットがあまり好きでない。

その理由の一つは、責任が無限化すること。

かなり多くのことが、ネットで調べれば分かる。
そのせいで「わからない」「できない」=「努力不足」になってしまう。

このへんでいいだろう、という暗黙の言い訳がきかない。
延々と頑張れてしまい、過労のもとになる。




2015年9月8日

逆説の10箇条

1 人は不合理で、わからず屋で、わがままな存在だ。
  それでもなお、人を愛しなさい。

2 何か良いことをすれば、隠された利己的な動機があるはずだと人に責められるだろう。
  それでもなお、良いことをしなさい。

3 成功すれば、うその友だちと本物の敵を得ることになる。
  それでもなお、成功しなさい。

4 今日の善行は明日になれば忘れられてしまうだろう。
  それでもなお、良いことをしなさい。

5 正直で率直なあり方はあなたを無防備にするだろう。
  それでもなお、正直で率直なあなたでいなさい。

6 最大の考えをもった最も大きな男女は、最小の心をもった最も小さな男女によって撃ち落されるかもしれない。
  それでもなお、大きな考えをもちなさい。

7 人は弱者をひいきにはするが、勝者の後にしかついていかない。
  それでもなお、弱者のために戦いなさい。

8 何年もかけて築いたものが一夜にして崩れ去るかもしれない。
  それでもなお、築きあげなさい。

9 人が本当に助けを必要としていても、実際に助けの手を差し伸べると攻撃されるかもしれない。
  それでもなお、人を助けなさい。

10 世界のために最善を尽くしても、その見返りにひどい仕打ちを受けるかもしれない。
  それでもなお、世界のために最善を尽くしなさい。



上記は『逆説の10カ条』というものだそうで、知人が教えたくれた。
素晴らしいので備忘録として載せておく。





2015年9月3日

『うつ病をなおす』野村総一郎 


この本を読んでも治らない。
しかし入門書にふさわしいと思う。
構成も明解、そこに自然な文体も手伝って読みやすい。
いろいろな書籍に手を出さずとも、概要を知るにはこの一冊で充分ではないか。
そして、患者は概要だけ知ればいい。
それ以上の知識はほとんど役に立たないものばかりだ。



2015年8月10日

今日の音楽:Michael Jackson『Bad』

 
車でよく音楽を聴く。今日は、

Michael Jackson『Bad』。
1987年8月31日)

説明不要、名曲揃い。
このアルバムから5曲連続でシングル全米NO.1に輝いたとか。
作詞作曲をほとんどマイケル自身が手がけているのも、改めてスゴイ。

「Liberian girl」好きだなあ。
ミュージック・ビデオも良かった。

1987年リリースと言えば、
The Beastie Boys 『LICENSED TO ILL 』
も同年か……

大衆音楽が、文化的パワーを持つ時代だった。








2015年8月5日

剣道の稽古見学


昨晩、剣道の稽古を見学してきた。
地元で最も大きな道場で、48名の有段者が会員になっている。

私は小2から小6まで、そこで剣道を習った。
中学と高校では学校の剣道部に所属し、その後約20年のブランクを経て、また最初の道場で稽古したいと考えている。
いわゆるリバ剣(リバイバル剣道)というやつだ。
大人になっても大人の戦い方で続けられるところが、剣道の大きな特徴だ。

週3回、大人の部は20時から約1時間。
地稽古中心のようだ。



2015年8月4日

カラオケでのノド


カラオケで高音を出すノドの力み の「残存」を瞑想で解消。


ノドへの力のかかり方、

その時の部屋の様子、

流れていた音楽

周りの人と話したこと

心境、


その時の活動に付随する感触を思い起こしてみる。
視覚、聴覚、嗅覚、触覚。
はじめは個々に。
最終的には同時並行で。




2015年7月30日

今日の音楽:Linkin park 『Meteora』


よく車でCDを聴く。
ダウンロードをしない主義。
ジャケットデザインに込めた意図も感じたいのと、年月と共に色褪せる「モノ」としての存在感も大切だから。

久しぶりに聴いた、
Linkin park 『Meteora』
2003年3月24日 Warner Bros. Records
懐かしい。

「感情を持った工業製品」とでも言うような、強靭さと儚さが同居する音。
当時のバンドのアイデンティティを高度に昇華していると思う。
今日の気分にはしっくりきた。

近年の方向性はビジュアルを含めて微妙である。
U2のパクリのように感じてしまう。

名盤紹介Linkin park – Meteora 一瞬に込めたこだわり。




2015年7月27日

うつ病と仕事2


うつ病になってから初めの約7年、満足な対策法を持たずに過ごした。
これは私の「知識」「判断力」「行動力」の不足による。
その間に様々な損失があり、それに対する無念さはあるが、そうなるより仕方がなかったという納得もまた大いにある。


瞑想を始めて3年経ったが、やりようによってもう少し早く回復させられたように思う。
私が苦戦した理由は、考えるに以下の2つだ。
瞑想を早い時期に始めなかった
仕事を休まなかった

もっと早くから瞑想に取り組めば症状をこじらせすぎず、混乱した部分の解消にとられる時間が少なかったろうと思う。

また、仕事を休まなかったために回復が遅れたことも明白だ。
休める状況にあれば休むべきだ。(しかしこの「休める状況にあるか」の判断は難しい)
少し良かったのは、「仕事ができない自分」に直面することで危機感を維持でき、病気と闘う意志をキープできたことだろうか。
しかし言うまでもなく諸刃の剣であるので、おすすめまではしない。



うつ病と仕事1


職場に着くなり同僚に言われる。
「white-greyさん、○○ありませんけど?」
準備することになっていた物品を、出し忘れた。

こういうのでいちいち凹んではいけない。

うつ病では「気にしない」ことが大切で、これもくり返し自分に言い聞かせることで「上達」する。

Q:病気だからといって開き直っても良いのか?
A:ぜんぜん良い。

うつ病との戦いでは「人目を気にしない」技術は必須だ。
ムリして働けという意味ではないのだが、その技術は実地訓練で最も上達することもまた事実だ。



2015年7月25日

医者通い


うつ病になってから私が訪ねた医者は、皆どこかが変だった。
やたらと説教してきたり、のらりくらり薬を変えるだけだったり。
このままやって治ることなどあるはずがない、と思わされるところばかりだった。

あえて率直に言うが、彼らは病気のこと・患者のことを何も分かってはいないだろう。
それでも商売が成り立つ。
業界そのものが、依然としてあまりにも発展途上だからだ。
高度なことを誰も語れない。
技量の優劣を問われる場が皆無なのだ。

田舎ゆえのこともあろう。
しかし、おそらく都会も含め、現在われわれ患者には有益な選択肢があまりに少ない。
医者に通うのをやめて数年経つが微塵の後悔もない。
この領域において、良い医者と出会いは、奇跡的幸運の下にしか起こらないと思っている。


2015年7月23日

瞑想


うつ病の治療には瞑想が欠かせない。
私は瞑想に救われている。

特別なものではなく、健康な状態では常に活用している内面の運用法
しかし誰も明確に認識していない。
したがって、見失ってしまうとその取り戻し方が分からない。

その存在の構造と取り戻し方を、ハッキリ理解したい。
瞑想は、元から私たちの身近にある。


2015年7月22日

うつ病歴


約10年前にうつ病になった。

1年目:
知覚・判断力・記憶力が著しく低下

2~3年目:
上記に加え、激しい頭痛、首・背中の痛み、腹部の違和感、不眠

4~6年目:
全体的に症状が穏やかになるが、左半身の痺れが続く

7年目:
「身体の力み」が体調に大きく影響していると気づき、症状の管理が上手くなる

8年目~
ヴィパッサナー瞑想を知り、段階的な回復を実感する


ザックリ言って上記のような経過だ。
判断力・記憶力はずいぶん良くなったけれどもまだ本調子ではない。
身体の痛みも少し残っている。

4~6年目のころ医者に計4件かかった(脳神経外科、心療内科など)が現在は行っていない。
薬は何だったか5種類ていど飲み続けたが、メリットが無かったのでやめた。

現在、瞑想で心身のバランスをとりながら会社員として生活している。



2015年7月18日

はじめに


うつ病歴だいたい10年
マインドフルネス歴だいたい3年

そんな会社員・男が、瞑想やうつ病の経過などを記します。
前にやっていたブログ→white-grey を一応受ける形ですが、かなり軽い気持ちで書きます。

ブログタイトル「white-grey」
白とグレーは好きな色ですが、ブログのタイトルにするほど好きかは疑問。
なぜしたのかは忘れました 汗

ともかく細ぼそやるつもりです。