2018年1月27日

「王道」「スタンダード」について 2


「王道」や「スタンダード」に徹して小手先に逃げないのは、骨のある態度だ。

「個性」や「その人らしさ」というものが結局は最も尊く輝かしい。それは確かだと思う。
しかし「自己満足に走らず王道に徹する」姿勢、苦節の末に獲得されたものである場合、それには大いなる称賛を送りたい。
世の中で生きていくことに「腹を括った」証だと思うからだ。
自己流を捨てることは、強さや覚悟がなければ出来ないこともあるだろう。

それに付随して思ったのは、王道に徹することができるのは、「人の世を信じることができる人」だろうということ。
他人が積み上げたもの、他人が見つけた答えなどの「自分以外の歩み」を肯定することができないと、人の世が生み出した王道に身を委ねることなど出来ない。

人の助言を参考にできない人は、人間不信の要素があるのかもしれない。
そう思ったのは、それが正に私のことであるからだった。



2018年1月16日

ゆったり雑に


心を病んでいる時、「几帳面」や「凝る」という性質は基本的にご法度だ。
そういうスタイルでやってきた人は自分の心を守るために見直すべきだ。

極力根詰めない。物事は「雑」にやっていい。
私もそのように気を付けているが、そこで気づくのは、雑にやっていると「スピードを上げようとする力」がじわじわ働いてくるということだ。

雑にやることで処理が早く終わるのが嬉しくなってくるのか、はたまた雑になってる状態が不快でストレスを発散したくなるのか、ともかくしだいに気持ちが急いでくる。
力まないために「少々雑でいいんだ」としているハズが、結局バタバタ急いでいたら効果半減だ。

そうならないためには「ゆったり、雑に」と心掛けると良いようだ。
「超天然」体質の人を観察すると細部にこだわらず大まかにゆっくりやっているが、アレである。
ゆったり、をまず崩してはいけない。
ゆったりをキープした上で、その結果として仕事などが大雑把になる、の順序でなければならない。



2018年1月9日

クラシック


クラシックという言葉が好きだ。
「class」に合っている、「class」を体現しているということ。
クラシカル「古典」のことではない。

その人にはその人のクラシックがある。
単に「分相応」ということよりも、些細なことも含めて「自分が最も自然でいられる」のが各々にとってのクラシックだと思う。

真似をしない。
無理をしない。
贋物をまとわない。
「そぶり」をしない。

それぞれがそれぞれのまま、堂々とする。
それが各自の品格につながる。
普遍的な気品というものだ。
上品ぶったら、演じたら、下品になる。

身の回りをよく理解し、自分ができることに熱心に取り組む。
そんなクラシックなマインドを大切にしたい。